民数記10:29 - 36 ; コリントの信徒への手紙T1:26-31
イスラエルの人々がシナイ山のふもとで経験した最後の出来事は、モーセが再び山 に登って二枚の「契約の板」をいただくことでした。契約を踏み破って金の子牛の像 を拝んだイスラエルの人々に、神は再び契約の外、混沌と無秩序、不自由の世界では なく、契約の中、秩序と自由と平和の中で生きることを許されたのです。 その出来事に伴って、不思議なエピソードが伝えられています。山から再び契約の 板を持ち帰ったモーセの顔が光り輝いていて、それをみたアロンやイスラエルの民は、 恐れて近づくことができなかった、というのです。それで、モーセは神と語り合う時 以外は顔に覆いをかけていなければならなかった、と。ミケランジェロの刻んだモー セ像には石の板を持ったモーセの頭に角が二本はえていますが、これは「光を放つ」 ということばと『角』ということばがヘブル語では同根だったところからでしょう。 いずれにせよ、印象的な光景です。パウロはコリントの信徒への手紙二、3章で、こ の出来事を手がかりに独特の意義をくみ取り、ここから旧約と新約の大きな違いを明 らかにしています。 モーセの顔に輝く神の栄光と、それを覆うベール、このようなイメージがわたした ちに伝えるメッセージは何か、二つの角度からこれを聞き取りたいと思います。一つ は、先に契約の板をいただいた時との対比です。出エジプト記24:3−8に最初に 民との契約が結ばれたことが記されています。そこでは、入念な礼拝が行われていま す。契約のことばが読まれ、書き記され、祭壇が築かれて小羊の血が流され、民に注 ぎかけられています。厳かな礼拝において、民は心を一つにして契約を守ることを誓 ったのでした。しかし、その誓いは直ちに破られました。ここで、再契約がむすばれ る時、入念な礼拝はありません。ただ神の栄光だけがモーセの顔を照らし(モーセは 自分では気づきません)、その輝きに民は畏れるのです。この配剤はまことに人知を 超えています。パウロは、このときモーセの顔を照らした栄光の輝きは、死に仕える 務め、罪に定める務めである律法の輝きであって、命を与え、霊に仕える務めの輝き ではなかった。主イエス・キリストと聖霊が映し出す栄光は、人を畏れさせる栄光で はなく、「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えさせる」もの、覆いなど必要としない、 というのです。栄光の質が違うのです。