7月2日
2006年7月2日

「主の契約を先頭にして」

民数記10:29 - 36 ; コリントの信徒への手紙T1:26-31


 イスラエルの人々がシナイ山のふもとで経験した最後の出来事は、モーセが再び山

に登って二枚の「契約の板」をいただくことでした。契約を踏み破って金の子牛の像

を拝んだイスラエルの人々に、神は再び契約の外、混沌と無秩序、不自由の世界では

なく、契約の中、秩序と自由と平和の中で生きることを許されたのです。

 その出来事に伴って、不思議なエピソードが伝えられています。山から再び契約の

板を持ち帰ったモーセの顔が光り輝いていて、それをみたアロンやイスラエルの民は、

恐れて近づくことができなかった、というのです。それで、モーセは神と語り合う時

以外は顔に覆いをかけていなければならなかった、と。ミケランジェロの刻んだモー

セ像には石の板を持ったモーセの頭に角が二本はえていますが、これは「光を放つ」

ということばと『角』ということばがヘブル語では同根だったところからでしょう。

いずれにせよ、印象的な光景です。パウロはコリントの信徒への手紙二、3章で、こ

の出来事を手がかりに独特の意義をくみ取り、ここから旧約と新約の大きな違いを明

らかにしています。

 モーセの顔に輝く神の栄光と、それを覆うベール、このようなイメージがわたした

ちに伝えるメッセージは何か、二つの角度からこれを聞き取りたいと思います。一つ

は、先に契約の板をいただいた時との対比です。出エジプト記24:3−8に最初に

民との契約が結ばれたことが記されています。そこでは、入念な礼拝が行われていま

す。契約のことばが読まれ、書き記され、祭壇が築かれて小羊の血が流され、民に注

ぎかけられています。厳かな礼拝において、民は心を一つにして契約を守ることを誓

ったのでした。しかし、その誓いは直ちに破られました。ここで、再契約がむすばれ

る時、入念な礼拝はありません。ただ神の栄光だけがモーセの顔を照らし(モーセは

自分では気づきません)、その輝きに民は畏れるのです。この配剤はまことに人知を

超えています。パウロは、このときモーセの顔を照らした栄光の輝きは、死に仕える

務め、罪に定める務めである律法の輝きであって、命を与え、霊に仕える務めの輝き

ではなかった。主イエス・キリストと聖霊が映し出す栄光は、人を畏れさせる栄光で

はなく、「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えさせる」もの、覆いなど必要としない、

というのです。栄光の質が違うのです。


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