申命記8:1-10 ; マルコによる福音書6:30-51
福音書には、主イエスが5つのパンと2匹の魚で男だけで5000人の空腹を満たされた 話が記されていて、素直にこの奇跡を驚くと言うより、こんな荒唐無稽の話がなぜ繰 り返し語られているのか不思議な感じに捉われる人もいるでしょう。しかし、ここに 主イエスのどの時代にも代わることのない存在のありようを、わたしたちの近くに感 じるための門が開かれていることを、福音書記者たちは指し示しています。 この物語は、一つの終わりから出発しています。弟子たちが宣教のために村々に遣 わされて、疲れきって帰ってきたところからはじまっているのです。主イエスは弟子 たちを休ませるために、「荒れ野」に向います。しかし、群集はそれを見て後を追い、 船から下りるともう群集が待ち構えていて、全く休みを与えません。「イエスは舟か ら上がり、大勢の群集を見て飼い主のいない羊のような有様を見て深くあわれみ、い ろいろと教え始められた。」群集は何を求めて主イエスの後を追ったのか。その求め はどの程度のものであったのか、それは問題にされていません。ただ、主イエスの中 にある心の動きだけが問題です。「深くあわれむ」と訳されていることばは、「内臓が 揺り動かされる」という原意で、その語感は日本語には訳しきれない激しさを含んで います。 一日中そんな状態が進んで夕方になったとき、弟子たちが言います。「人々を解散 させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ何か食べる物を買いに行くでし ょう。」すると、主は言われます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」こ のとき、弟子たちの判断はまことに常識的で当然のものです。主イエスの要求は、度 を越しています。疲れきった弟子たち、荒れ野、一日中の話、夕方、もう限界です。 主はその弟子たちに「あなたがたの手で」と言われます。主がそこにおられると言う こと、主がそのように命じておられると言うことを一時でも忘れたら、何も起こらな かったでしょう。しかし、主のあわれみは、わたしたちが考える度を越えています。 人々の間にあった、わずかなパンと魚を、主が祝福して渡されると、分けても分けて も無くなることはなく、豊かな祝宴を「青草の原」に出現させたのです。 疲れきった上に、さらに、奉仕をさせられた弟子たちの空腹と疲れは、癒されたの でしょうか。そうです。弟子たちは独特の仕方で、彼らの飢えと渇きを癒されていま す。主イエスと共にいる不思議を、誰よりも近くで味わっているのです。