民数記 11:1-16;ヤコブの手紙 1:2-9
シナイ山のふもとを出発して、いよいよカナンの地に向かっての旅を再会すると、ま もなく、民の間に「主の耳に達するほどの不満」が沸きあがったこと、それを受けて、 モーセの祈り、「泣き言の祈り」が記されています。民の不満は日毎の糧に関わるもの です。「だれか肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていた し、きゅうりやメロン、ねぎや玉ねぎやにんにくも忘れられない」。なんとリアルな 訴えでしょう。このような不満は「民に加わっていた種々雑多な他国人」の間からはじ まって、民全体に広がったことも記されています。さもありなん。その不満を聞いた 主は、憤り、主の火が彼ら対して燃え上がる、と言うことになります。主が憤ること を、原文では「鼻が熱くなる」という表現をしていて、まるで絵を見るようです。 このような不満を受けて、モーセが主に向って祈ります。この民すべてに食べさせ る肉をどこで見つければよいのか。この民はわたしには重すぎる。わたしはこの民の 乳母でもなく、わたしがこの民を産んだのでもない。わたしはもう疲れた。この民を 負うことはできません。どうぞ殺してください。・・・ああ、なんと率直な祈りであ ることか。いつもの毅然たるモーセではありません。主の杖を手にして、ファラオに 立ち向かい、紅海を渡ったモーセではなく、燃える柴の中から語られ、召し出される 主に対して、あれこれとためらったモーセに逆戻りしたかのようです。この祈りを信 仰的に分析すると、独特の構造が浮かび上がってきます。モーセは主に向って祈って いますが、その姿勢は主に向っているのではなく、民の大きな不満に神に代わって答 えなければならないという姿勢になっていて、神に背を向けています。その訴えは、 神が聞いて、主の独自の仕方で答えてくださることを期待すべきであるのに、自分が 神のような力をもらって、自分の手で問題を解決しなければならないかのように思っ て、現実の壁に頭を打ち付け、自滅しそうになっています。自分の位置を神に近づけ すぎているのです。「泣き言の祈り」は、わたしたちの祈りになんと近いことでしょ う。主イエスが5千人の人を5つのパンと2匹の魚で養われた時、主はその弟子たち に「あなたがたの手で」と言われました。主がそこにおられると言うこと、主がその ように命じておられることを一時でも忘れたら、何も起こらなかったでしょう。モー セも、主がこの旅の主導者であること思い起こすべきでした。