7月23日
2006年7月23日

「貪 欲 の 墓 」

民数記 11:16-34;コリントの信徒への手紙T10:23-31


 シナイ山を出発して早々に、イスラエルの民の間に間に広がった大いなる不満、そ

れを受けたモーセの「泣き言の祈り」に対して、主なる神は、そのような貪欲と不信

にたいして、沈黙やさばきをもって臨まれるのではなく、確かに応答されます。モー

セの祈り「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしに

は重すぎます」に対しては、民の長老の中から70人を選ばせ、この人々にモーセに与

えた霊の力を分かち与えて、モーセの重荷を軽くしたのです。また、マナだけでは飽

きて、「肉が欲しい、エジプトでは魚やメロン、きゅうりや玉ねぎがただで食べられ

たのに」、と不平を言う民に対しては、「主のもとから風が出て、海のほうからうず

らを吹き寄せ、宿営の近くに落とす」ウルトラCの手立てで、飽き足りて、鼻から出

るほどに、吐き気を催すほどに、肉を食べることができるようにされました。イスラ

エルの民の不平も、モーセの祈りも、まさにわたしたちにも人生の旅の途上であふれ

出てくる思いであり、祈りです。これに対して、主なる神は旅の途上の「終わりに」

ではなく、まさに「途上において」応えておられます。

 しかし、この途上における応答は、まさにその求めに正しく応えるものですが、そ

れぞれにその中に危機をはらんでいることに注意しなければなりません。モーセに与

えた霊をとって70人に分け与えたことは、権威と力の分散を意味することであり、早

速エルダドとメダドという70人のうちにはいない二人の長老は、他の70人が会見の幕

屋で主の霊を受けている時、宿営で預言状態になって霊を受けることが起こりました。

モーセ一人に集中していた霊的な力、権威に分裂が生じたのです。このとき、モーセ

はねたむ心を排して、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望

している」と語って危機を乗り越えました。

 民の不満、貪欲に対する応えは、きわめて即物的に、うずらを運んでくることによ

って果たされました。これも「主のもとから出た風」すなわち「霊」の働きによるもので

すが、これを食べた人々の間から激しい疫病がでて、多くの人命を落とした、という

のです。主の憤りが、主の憐れみの中に混じっています。旅の途上における主なる神

の答えは、主の十字架と復活において示された究極の救いではありません。受け止め

る者の受け止め方によって、その恵みは大いに違っています。恵みは「貪欲の墓」に

なりうるのです。


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