民数記 11:35-12:16;コリントの信徒への手紙T12:1-11
シナイ山を発って約束の地カナンにいたるイスラエルの旅は、大いなる自由に向っ ての栄光への脱出とはいえません。むしろ、人間の弱さと罪を露呈する歩みでした。 このたびは、こともあろうに、モーセの姉のミリアムと兄のアロンがモーセに対して 非難と攻撃をはじめて、荒れ野の旅はまさに立ち往生しているのです。ミリアムとア ロンがモーセを攻撃した理由は二つ、「モーセはクシャの女を妻にしている」と、 「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではない か」ということでした。モーセの私的生活に関わることと公的な権威に関わること。 このような非難の仕方は、時代を隔てたわたしたちにもよく分かることで、人間の中 に起こる争いの原因は今も昔も変ることがないと思わされます。モーセの妻はミディ アンの祭司の娘チッポラであったはずですが、ここではクシュの女、つまり、現在の エチオピアの出身ということになりますが、ここで別の女性のことを考えなくてもよ いというのが大方の見方です。自分たちのの同質性を脅かす者に対する警戒と排除の 指向です。逆に、モーセのみが主の言葉を語ることに対する非難は、自分達との同質 性を主張するところから出る非難です。一体このような非難は何を意味するのでしょ うか。 ミリアムはモーセの姉、モーセが水の中から救い上げられてエジプトの王女も子と して育てられることになるには、ミリアムの機転が働いていました。紅海を通ってエ ジプト軍の追跡を逃れた時、民をリードして讃美の歌を踊ったのはミリアムでした。 その時「女預言者」と呼ばれています。アロンも、これまでモーセと共に、モーセの口 となってファラオと対決し、荒れ野の道を共にイスラエルの民を指導して上ってきた のでした。彼らも「神の人」です。ここになって、何ゆえにモーセの権威を疑うこと になったのでしょう。ここには、自らの内にある上からのもの、下からのもの、霊的 なものと人間的なものとの混同、混乱が起こっているからではないでしょうか。民を 導く大きな力の真の出所を人間的な力、能力と混同し区別がつかなくなるとき、互い に謙遜を忘れ、比較し、争うことになります。モーセは、このような攻撃に対して沈 黙を守ります。それは、「わたしは主が霊を授けて主の民すべてが預言者になればよ いと切望している」という11:29の言葉で説明できるでしょう。