8月20日
2006年8月20日

「隔離された者として 」

民数記 12:9-16;ヘブライ人への手紙 3:7-19


ミリアムとアロンがモーセに対して非難と攻撃を始めて、荒れ野の旅が立ち往生した

とき、主なる神は迅速に行動され、非難をしたミリアムに対して罰を下されます。

「ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた」というのです。私た

ちはこのことをどう考えるべきなのでしょう。罪と罰、神のさばきについて、自分の

まわりに起こる不幸な出来事をみて、これを簡単に神の罰とか呪いと結びつけること

は正しいことではありません。神のさばきについて勝手な思い込みは禁物です。しか

し、何らかの意味で、出来事の背後に主の御旨が働いているとすれば、その趣旨の捉

え方は、特に旧約の学びを通して深められることです。

 ミリアムに与えられた神のさばきは「重い皮膚病」(ツアーラート:この語の訳に

ついてはさまざまな議論があります)。これは共同体との交わりを断たれる病です。

ミリアムの罪とこの罰には関連がありそうです。ミリアムはモーセに与えられた特別

な上からの権威上からのもの、霊的なものと人間的なもの、下からのものと混同した

のです。ミリアムはいま、同質的な共同体の交わりの中に入れない病の現実を経験さ

せられます。上からのもの、霊的なものへのおそれと敬いを軽視し、謙遜を忘れると

き、上から下される罰は、それによって単に苦痛を与えるだけでなく、目を開かせ、

自らの愚かさに気付かせ、これによって共同体が癒されると言う結果をもたらしてい

ます。さばきが治癒になっているのです。

 同じ罪を犯し、罰を受けなかったアロンは、ここでどうしたか。罪を告白し、愚か

さを認め、癒しを求めてモーセにとりなしを懇願したのは病にかかったミリアムでは

なくアロンでした。モーセは神に懇願します。「神よ、どうか彼女を癒してください。」

これらの人間の振る舞いは味わうに足ります。罪とさばきの連鎖の中で、それが真の

癒しと回復になってゆく正当な道筋が示されているからです。


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