9月24日
2006年9月24日

「さあ、エジプトへ帰ろう・・・ 」

民数記 14:1-10;ローマの信徒への手紙 8:18-30


「土地についての悪い情報」をきいて、「共同体全体は声を上げて叫び、民は夜通し

泣き言を言った」と記されています。暗い夜、絶望、悲しみが共同体全体を包み、闇

が支配しています。神の導きと約束に目をとめないで、自分の力と征服すべき相手の

力とを見比べた不信仰の心に担われた情報が民を動かします。「エジプトの国で死ぬ

か、荒れ野で死ぬ方がよほどましだった・・・さあ、一人のかしらを立ててエジプト

に帰ろう。」これまで歩んで来た中で経験した神の導きはすべて消え去っています。

希望なき民は歴史を喪失します。「神の御心に適った悲しみは取り消されることのな

い救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)

といわれるように、確かにわたしたちの悲しみには二つの道が備えられています。こ

こでは、まさに「世の悲しみ」の道をまっしぐらに突き進んでいる様を見せつけられ

ます。

 この暗い闇が支配する状況で、ヨシュアとカレブの二人が立ち上がって、神の民の

崩壊を食い止めようとしています。「もし我々が主の御心に適うなら、主は我々をあ

の土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。・・・主は

我々とともにおられる。彼らを恐れてはならない。」この二人は、全く別の視点をも

っています。主の導き、主の御心に適うこと、主が共におられることが彼らの行動を

導く基本原理です。ここで「主が共におられる」と語っている意味は、申命記1:26

以下に「主が先立って進まれる」、「あなたたちのために戦われる」、「主が父が子

を背負うようにあなたがたを背負ってくださる」という多様な表現でこの語がもって

いる特別な意味をよく表しています。


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