民数記 14:11-25;ルカによる福音書 22:31-46
エジプト脱出を敢行し、荒れ野の旅をして約束の地カナンにたどりついたとき、イ スラエルの民は、そこに入ることができずエジプトに帰ろうと言いだしたこと、これ はあの金の子牛の像を造って拝んだことと並んでイスラエルの罪の原体験であったこ とは確かです。金の子牛を礼拝することが十戒の第1戒と2戒を犯すものであるとすれ ば、この「エジプトへ帰ろう」と言い出した出来事は、十戒の前文、「わたしは主、 あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から引き出した神である」の全否定で す。これまでの神の民の歴史、神との契約をすべてご破算とするようなものです。主 の激しい怒りが発せられるのは当然です。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。 彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたし は疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国にしよう。」 このときモーセの執り成しの祈り、これは驚くべきものです。モーセは祈ります。 この民を滅ぼしてしまえばあなたの名声が傷つきます。主は忍耐強く慈しみに満ちた 方だと約束されました。エジプトからここに至るまでこの民を赦してこられたように 赦してください。なんと虫のいい訴えであることか。地上のすべての民を造られた主 なる神がどうして諸国民の名声を気遣う必要があるでしょう。神に忍耐深くあること を要求するとは何とあつかましいことか。神に歴史を思い出せと語るなど本末転倒も はなはだしい。これらの要求はすべて本来人間であるわたしたちが担うべきことです。 しかし、もっと驚くべきことは、主なる神はこのモーセの執り成しの言葉のゆえに 「わたしは赦そう」と語られるのです。ここで「赦す」とは、「水に流す」という意 味ではなく、この民の罪を「代わって担う」という意味を含みます。主が罪を担われ る決意をされたゆえに、イスラエルの旅はここで終わるのではなく、さらに修練の旅 が続くことになるのです。