民数記 14:26-38;ローマの信徒への手紙 2:1-16
約束の地を目前にして荒れ野に引き返すことになったイスラエルの罪について、ヘ ブライ人への手紙では、神の安息に入れてくださる約束の言葉を聞いた人々が、その 言葉を信仰と結びつけることをしなかったからだと断じています。その不信仰に対す る主なる神の処置はどのようであったか、よく知られた三つの処置が語られています。 1)20歳以上のものは誰一人約束の地に入ることはできず、荒れ野で死体となる、 2)子どもたちは、40年の間荒れ野で羊飼いとなり、大人の世代の罪を負い、その 後約束の地に導きいれる、3)カレブとヨシュアは生き残って約束の地に入る。この 神の処置をどのように考えるべきなのでしょう。神の怒りの現われ?情け容赦のない 罪に対する裁き?いや、この処置の前に、モーセのとりなしに対する神の言葉があり ます。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう」。そうです。この赦しの中で、わ たしたちの罪の責任を負われる神が、罪から解放された清いものとなるための処置が 語られているのです。それにしても、20歳以上のものがすべて荒れ野で死に絶える とは、希望のないことではないでしょうか。「わたしをなえがしろにする者は誰一人 としてそれを見るものはない。」そこには怒りしか見えないのではないか、と思われ ます。しかし、その処置の中に、主がどのように人間の罪と立ち向かわれるのかを知 ることができます。人はみずから語った言葉の行く末を確かに見ることによって、責 任のある主体となって行くことができる。「荒れ野で死んだほうがましだ」語った人々 は、荒れ野の中でその言葉をかみしめる中で、清められるのです。また、希望がない わけではありません。彼らの希望は子どもです。自分たちの罪の歩みを通し、そこに 働く神の憐れみを共に負うこと通して、神に従うことを学んだ子どもたちが、自分た ちの屍を乗り越えて約束の地に入ってゆくことができるように導く、大きな責任が彼 らに託されているのです。