10月29日
2006年10月29日

「暴挙―主が共におられるのでなければ」

民数記14:36-45;ガラテヤの信徒への手紙2:15-21


 イスラエルの民は、主なる神の怒りにふれ、40年にわたって荒れ野の生活が続くこ

と、20歳以上の民は荒れ野で死に絶えること、次の世代の者が約束の地に入ること

などの上よりの処置を聞いて悲嘆にくれ、朝起きると、約束の地に向かって山の頂上

目指して進み始めました。あれほど恐れたアマレク人やカナン人のいる地に向かって、

モーセやアロンの制止を振り切って突き進んだのです。その結果は、「山地に住むア

マレク人とカナン人は山を下って彼らを撃ち、ホルマまできて彼らを破った」と語ら

れます。まさに無謀な企てとその結果です。無駄な死を重ねた上に荒れ野に向かう4

0年はもはや取り返しのつかない決定的な方向となりました。

 このような暴挙は、一見信仰的な言葉と促しによって起こされています。「さあ、

主が約束されたところに向かって行こう。われわれは誤っていた」というのですから。

自らの罪に気づいて悔い改め、再び約束を信じて勇気を持った行動に向かって心を一

つにするのは信仰者の姿を示しているのではないでしょうか。しかし、この言葉は、

民の罪に対して主なる神が示された憐れみの処置に対する「不服従」と自分の力に対

する「過信」とを中核に含んでいます。確かに、私たちの歩みにおいて、信仰的な外

貌をもった不信仰、不従順の歩みがあることに気づかされます。

 モーセは「主はあなたがたの内にはおられない」といって警告します。「主が共に

おられる」ことをもって始まった出エジプトの旅に、主が共におられないことがある

という警告は衝撃的です。「主が共におられる」の意味は、主がおられるところに私

たちをおらせてくださる、そこに恵みがあり、奇跡があり、豊かな実りがあることを

再確認させられます。



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