11月19日
2006年11月19日

「コラと仲間たちの最後」

民数記16:16-36;コリントの信徒への手紙U4:1-15


 コラとその仲間たちの最後は、悲惨なものでした。大地が足下から裂け、家族、財

産もろともに、地の底に呑み込まれてしまったのです。神の怒りと裁きがたちどころ

に現われて、この反乱事件は一件落着というところですが、このような神の怒りや裁

きには何か釈然としない気持ちが残ります。確かに、真に聖なるものを畏れることな

く、すべてのものが聖であると主張しながら己を立てようとするコラやその仲間たち

の傲慢さは、裁かれなければなりません。彼らは、神の栄光が現われると、たちまち

恐れおののいて、「すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、あなたは一人が罪を

犯すと共同体全体に怒りを下されるのですか」と、まことに虫のいい叫びを上げてい

ます。すべてが聖であると主張する一人一人は、誰も、自分の罪の責任を負うことが

できず、他者にその責めを負わそうとします。コラはすべての民の平等と尊厳性を盾

に、モーセの権威にはむかっていますが、民主主義が衆愚に陥るからくりがここによ

くあらわされています。

 それにしても、ここでコラとその仲間が地に呑み込まれてしまったこの粛清をどの

ように受け止めるべきでしょう。神は怒ること遅く忍耐強く憐れみに富む方ではない

のでしょうか。何よりも気になることは、この裁きのイメージは、モーセの願ったか

たちの裁きであったということです。「もし主が新しいことを創始されて、大地が口

を開き彼らが生きたまま陰府に下るならば、この者たちが主をないがしろにしたこと

あなたがたは知るであろう」とモーセの願い通りになったのです。しかし、これは、

少しも神の新しい業などではなく、歴史に繰り返される権力者の粛清の情景にほかな

りません。これは、神の暫定的な裁きに過ぎず、本当の罪に対する神のさばきは、あ

の主イエス・キリストの十字架において起こったのではないか、このようなスパンで

考えないと、この怒りとさばきのかたちは不可解です。


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