民数記17:1-15;コリントの信徒への手紙U6:14-7:1
モーセの権威に逆らって立った民の指導者たち250人に、神の怒りと裁きが下さ れます。「主のもとから出て、香をささげた250人を焼き殺した」というのです。 焼け跡から焼け爛れた香炉を取り出し、それを打ち延ばして板金とし、祭壇の覆いと して、「アロンの子孫以外の者が主のみ前に近づき、香をささげてはならないことを イスラエルの人々に思い起こさせる」ことにした、とあります。祭壇の前で礼拝する たびに、その聖なる秩序を思い起こさなければならないと言うわけです。すべての民 が聖なるもの、すべての民が祭司たりうるという民主主義の原理、万人祭司の原理は あえなく潰え去っています。しかし、ここで注意しなければならないのは、確かにこ こで、自らを勝手に聖なるものと思い込んで自己を主張することは、神の怒りとさば きに遭っていますが、また、アロンの子孫でさえあれば自動的に祭司としての聖性を 身につけるのではないということです。主が選ばれたもの、主が聖とされたものが聖 なる務めに当たることが許されるということで、これこそ、人格の尊厳性の根拠であ り、すべての神の教会において立てられるべき者の原理です。 このような厳しい神の怒りと裁きが目の前で行われたことによって、イスラエルの 民は心から神を恐れ、モーセとアロンの指導体制が確立されたか、というと、そうで はないのです。むしろ、「イスラエルの共同体全体はモーセとアロンに逆らって、 『あなたたちは主の民を殺してしまったではないか』と不平を言った」と記されてい ます。そのような抗議にモーセもアロンも地に顔を伏せるのみです。しかし、そのと き、主の怒りは大いなる疫病をもって民を襲います。そこで、祭司アロンは香炉に火 を入れて民の間を走ります。「死んだ者と生きた者の間に」分けて入って主の前にと りなし、罪のあがないをするのです。ここでやっと、主によって立てられた祭司が果 たすべき本当の意義や働きに出会います。