エレミヤ書33:10-16;ルカによる福音書21:25-36
このアドヴェントの期間、旧約のメシア預言の箇所を取り上げて、その待望の現実 性を学びたいと思います。よく知られているように、何百年も前から旧約の預言者た ちがメシア(救世主)の到来を予告していました。エレミヤ書の中にもメシア預言が あります。「ダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。かれは公平と正義をもっ てこの国を治める。その日にはユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まうとこ ろとなる。その名は『主はわれらの救い』と呼ばれるであろう」(33:14〜16)。 これとほぼ同じ内容のものが23:5〜6にもあります。主イエスが十字架にかから れる前、エルサレムに入城したとき、人々が「ホサナ、ダビデの子にホサナ、」と歓 び迎えたことや、盲人バルテマイが主イエスの通られるのを聞いて「ダビデの子よ、 憐れんでください」と大声で叫んだ理由の一つがここにあります。人々は救い主はダ ビデの子としてくることを長く待ち望んでいたのです。 エレミヤは、紀元前世紀、バビロンのネブカデネザルによるイスラエル征服と第一 次第二次に及ぶ捕囚期の時代を生きた預言者です。その預言の内容の大半はイスラエ ルに滅びが来るということです。現実のバビロニアの脅威の背後に,天地の造り主で ある主なる神の大いなるさばきがある。偶像を礼拝し、正義と公正を踏みにじってき た罪に対する神のさばきがあると叫び、悔改めを迫ったのです。そのような裁きの預 言のただなかに、癒しと治癒と回復の預言があります。その中心にメシア預言があり ます。エレミヤは目前のダビデ家の王たちの堕落と愚かさを見据えています。しかし 、人間の抱く期待や希望がまったく機能しなくなったとき、悪魔的な力の前にすべて の人間的な営みが無駄になったかに思われるとき、そこに「義の若枝」が到来するこ とを告げるのです。悔改めがあって赦しがある。断絶があって回復がある。ここに救 い主のあり方の像を見ているのです。