11月26日
2006年12月10日

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」

イザヤ書55:1-11;ルカによる福音書4:14-21


 主イエスは、故郷ナザレの会堂で安息日に人々に話されたとき、預言者イザヤの書

を開いて、主の恵みの年の到来をつげる預言の言葉を読み、「この言葉は、今日、こ

こに、実現した」、と語られました。それを聞いた人々はどんなに驚き、衝撃を受け

たことでしょう。それ以後、ナザレのイエスの一挙手一投足に目が離せなくなったに

ちがいありません。その衝撃の大きさを想像しながら、今わたしたちも、預言者の言

葉を聞いて、主がわたしたちのところに来られることが何を意味するのかを追体験す

ることはできます。

 「さあ、のどが渇いている人、いらっしゃい。水があるよ。金のない人もみんな、

来るがいい。金は要らないよ。ただだよ、水もぶどう酒も、ミルクも。働いても、働

いても、何の実りもないあなた。食べても食べても心が一杯にならないあなた。さあ、

来て、わたしから買い、食べるがいい。」イザヤ書55章の冒頭の言葉はこんな調子の、

街頭の物売りの呼び声のように、神の救いの時の到来を告げるのです。なんという呼

びかけでしょう。静かな祈りの部屋、教えを学ぶ部屋、礼拝の説教ではなく、今日の

糧を求めて雑踏の中でさまよっている人に、「さあ、来なさい」(さあ、と言う言葉

は、ヘブル語で「ホーイ」、日本語の呼びかけに似ています)。しかも、市場に物が

あふれていても、買う金もなくやっと今日の家族の飢えを満たすものだけを手に入れ

る、明日を持たない捕囚の民に、この呼びかけは届きます。「重荷を負って苦労して

いる人はわたしのもとに来なさい」という主イエスの呼びかけが重なります。この呼

びかけは、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って魂に命を得よ」

につながっていきます。神の真実の愛に基づくとこしえの契約に立ち返り、神の真実

の言葉に聞くとき、そこに癒しがあり、回復がある、と。「雨も雪も、ひとたび天か

ら降れば、むなしく天に戻らない。・・・そのようにわたしの口から出るわたしの言

葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない」と。その言葉が、実体を伴ってわたした

ちの前にいるのです。


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