イザヤ書11:1-10;ルカによる福音書2:1-20
わたしたちは、クリスマスのたびごとに、「今日ダビデの町に救い主がお生まれに なった」と言う天使たちの歌声を聞きます。遠い昔から預言者たちが告げたとおりの ことが起こったのだ、と。しかし、預言者の言葉は、それぞれの歴史状況の中で、神 がもたらす来るべき国をイメージしたもので、それ自体は漠然としたものです。しか し、その漠然としたものが、後代のさまざまな歴史状況の中で大きなインパクトを与 え、次の時代を作り出してゆく力になってゆくのです。預言者イザヤの預言したメシ アのイメージは主イエス・キリストの生涯においてどのように実現し、また、それは まだ開かれたままであるのかを見ることは興味深いことです。 イザヤは来るべきメシアの像を最も力強く語った預言者でした。「エッサイの株か ら一つの芽が萌えいで、その枝から若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる・・・。」 預言者イザヤは紀元前8世紀の、大国アッシリアの強大な力の前に翻弄され、嵐にざ わめく木の葉のように揺れ動く小国ユダヤの政治状況の中で、神の言葉を伝えた預言 者です。イザヤの描く、荒廃と混沌、人間の罪と神の裁き、そして回復の預言の中で、 来るべきメシアのイメージが語られます。「エッサイの株」とは、ダビデ王家から出 る若枝、つまり、新しい時代を作り出す王が生まれる、ということですが、ダビデと いわず、「エッサイの切り株」と言っているところに預言者の思いがあります。ダビ デの父エッサイはベツレヘムの羊飼い、ダビデはその末息子でした。最も小さいもの が神に選ばれて王となったのです。しかも「切り株」、いったん切り倒されたところ からひこばえのように出てくる枝に希望を託しているのです。このイザヤのイメージ と人口調査のためにダビデの町ベツレヘムに帰ってきて、そこで生まれた主イエス、 飼い葉おけの中に寝かせられた主イエスの誕生とを重ね合わせると、預言と成就の関 係がどのようなことかが深められます。イザヤは、その若枝は「主を知り、畏れ敬う 霊」に満たされ、目に見えるところによって裁きを行わず・・この地の貧しいものを 弁護する。その口の鞭をもって地をうち・・・」と、王のイメージで描いています。 しかし、主イエスは、「その有様は人と異ならず、死に至るまで、しかも十字架の死 に至るまで従順であられた」僕の姿で、この世界に神の義を表し、和解を創り出され ます。