イザヤ書61:1-11;マタイによる福音書2:1-12
アドヴェントからクリスマスにかけて、旧約のメシア預言について学んできました。 それぞれの歴史状況において期待され預言されたメシアの到来が、主イエスの誕生に よって実現したのは確かですが、その預言と実現の関係は単純なものではないことを 知りました。 マタイによる福音書が告げる救い主降誕の出来事も、ヨセフへの天使のお告げに続 いて、東の占星術の学者の到来、そして、そのことによるヘロデの動揺、聖家族のエ ジプト逃避、ベツレヘムの2才以下の子どもの虐殺と、思わぬ展開が伝えられ、それ が預言の成就だと跡付けられています。マタイは天の声を聞き取った預言者の「預言」 がこの世界の中で「実現」するにいたる悲劇的な間隙をよく知っています。そこには きわめてリアルな人間の社会の現実が映し出されています。神の言葉が肉体を取って 実現する事態は、そこで語られている神の側からの癒し回復、恵みと真実を、肉なる 世界においては、それをゆがめ、逆転させ、いっそう暗黒をきわだたせることになる 現実があることを伝えているのです。ヘロデ王、そして、エルサレムの人たちは、救 い主が来ることについて長く待ち望み、その到来によって正義と公正が回復し、この 地の貧しいもの、虐げられているものに平安が臨むことを知っていました。メシアが どこに生まれるかも、何人もの預言者がダビデの家から出ることを預言していました から、東方の博士たちの問いにすぐに答えることができました。しかし、その知らせ は彼らを動揺させ、黒い情熱を呼び覚ましたのです。神の救いを告げる言葉がこのよ うに人間の心の中で暗転する事態は珍しいことではありません。平和への希望が戦争 を生み出し、愛されたい願いが憎しみへと発酵します。しかし、そのような人間の心 のゆえにクリスマスは来なかったのではないのです。そのような肉なる世界であるか らこそ、そのただなかに、救い主は来られた。このことを告げるのがクリスマスです。 たしかに、天から下った一粒の水滴が空しく再び天に戻ることはないように、主の恵 みの言葉も、むなしくその働きをしないことはない、のです。