19980614
1998年6月14日

「天の父のまなざし」

マタイによる福音書6章25−34


 日曜学校との合同礼拝の時。子どもと大人と一緒に神さまを礼拝する仲間。では、

木や草や虫や獣はどうでしょう。人間のように言葉をもたないから、人間のように

神をたたえることはできません。しかし、木や草、森や林も語ることのないことば

で神さまをたたえていると聖書は教えています。そればかりでなく、わたしたちは

空の鳥や花をよく見て、わたしたちが生きるための教師としなければならないと主

イエスは教えています。

 150年ほど前に、アメリカのスクワミッシュ・インディアンの酋長シアトルは、

白人によって住み慣れた土地を追われて居住区に移されるとき、いつでも好きなと

きに妨害を受けることなく先祖の墓や友人、子どもたちの墓を訪ねる権利を主張し

て次のようにいいました。「この土地のすべてが神聖だ。すべての山、すべての谷、

すべての平原や森、そのひとつ一つが過ぎ去った日々の悲しみや喜びの出来事で浄

められている」と。深い自然に対する尊敬と愛、慎んで自然とつきあうつきあい方

が示されています。そして更に、「あなた方の神はわれわれの神ではない。あなた

方の神はあなた方の民を愛し、われわれの民を憎んでいる。あなた方の神はたのも

しい両腕で白人をやさしく抱き、幼子の手を取って歩む父親のように白人を導く。

しかしインディアンの子の方は見捨てられたままだ」といいます。白人の神は白人

たちが伝えるイエス・キリストの神です。酋長シアトルの言葉は主イエスが「アバ

父よ」と祈った神を正しくとらえているでしょうか。どうしてこのような深い誤解

が生まれたのでしょうか。インディアンを追い立てた白人たちが、主イエスが教え

てくださったように、空の鳥や野の花を教師として学ぶことをせず、自分の思い煩

いと欲望から学ぼうとしたからではないでしょうか。

 今日は生えていて明日は炉に投げ入れられる野の花がどのように天の父によって

装われているか、また蒔くこともせず刈ることもせず、倉に取り入れることもしな

い空の鳥を、天の父がどんなに養っていてくださるかを学んでいた人は、思い煩い

から解放されるだけでなく、自分たちのために国を造るのではなく、神の国と神の

義のために働く人に変えられていくはずです。

 鏡の前で、また人の目の前で、自分の顔と心を眺めている人、どのように装うか

と思い煩っている人、どうか鏡を取り替えて、花と鳥を見て、そこに映っている自

分の存在、天の父があなたを見ているまなざしを感じましょう。
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