6月15日
1997年6月15日

「荒れ野における人生」

創世記21章8−34


 アブラハムとサラにイサクが与えられ、「神はわたしに笑いをお与えになった」

という感謝に満ちた情景は一転して苦渋に満ちた場面に変わります。奴隷女ハガル

に産ませたイシュマエルがイサクをからかっているのを見て、サラは「あの奴隷女

と、その産ませた子どもを追い出してください」と要求し始めたからです。一つの

笑いは新しい苦渋の始まり、まさに荒れ野における人生の様です。サラの言葉はき

わめて冷酷で無情です。隣人を自分のように愛する態度とは違います。しかし、誰

でも妾の子どもが自分の子どもをからかっている姿を見、その子どもたちがどう育

って行くか、子どもの将来を真剣に考える母親でしたら、サラの心にあふれている

思いを理解できるでしょう。アブラハムはサラの強硬な要求に悩み抜いています。

「そのことはアブラハムの目には大変苦しいものに思われた。彼の子どもであった

からである」と。

 ここで大変興味深いことに、神が介入し、悩み抜いているアブラハムに「すべて

サラが言うとおりに聞き従いなさい」と勧めているのです。ここに、アブラハムと

同じように荒れ野の人生を歩むわたしたちの信仰者が学ぶべき教訓を見いだします。

神の言葉はきわめて一方的で、冷酷で無情で差別的なサラに偏った選択を指し示し

ています。気の毒な奴隷女とその子イシュマエルを家から追放せよというのですか

ら。ヒュ−マニストの立場からすれば許し難い選択です。虐げられている方に味方

すべきではないかと思われます。しかしここで神は、正統的なものとそうでないも

のとをはっきり区別しています。約束の子イサクがアブラハムの所にとどまるべき

だと。

 荒れ野における人生は決断の連続です。ときには悪いものと悪いものとのどちら

かを選ばなければなりません。どちらをとっても血が流れるような痛みを伴うこと

もあります。人間的であろうという原則だけでは、ただアブラハムのように悩み抜

いて優柔不断になるだけです。自分の情に従っている限り何も決断できなかったで

しょう。しかし、神が正統なものを示してくださって、そこに向かって決断するよ

うに命じてくださったことによって、荒れ野の中に一本の道を見いだしているので

す。信仰者は自分の倫理観の枠の中で座り込んでいる人ではなくて、「わたしは道

であり、真理であり命である」と語って、わたしに従ってきなさいと命じてくださ

る主イエスに従う歩みであることを学ばされます。

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