エフェソの信徒への手紙2章4−10
洗礼式のときに確認したわたしたちの生活のよりどころ、出発点は、わたしたちは 神の愛によりそのあわれみによって死から命に移されたということです。生まれなが らの怒りの子、罪過のために死んでいたものが自分の行いによってではなく、恵みに よって救いに入れられたのです。この神の真実による救いを表現するとき、エフェソ の手紙では、3つの「共に」を語ります。「共に生かし」、「共に復活させ」、「共 に天の王座につかせ」。だれと共にか。キリストと共にです。キリストと共にある歩 みにわたしたちを引き合わせてくださることによって示される救い、これがわたした ちの信仰の出発点であり、これがわたしたちの救いです。神の真実の究極の姿は、わ たしたちに好運をもたらしてくださることではありません。奇跡的に苦境から救い出 してくださることでもありません。それらはみなあるようでないような、漠然とした ものです。そのような不確かなものによってでなく、キリスト・イエスにあって共に いる存在、その生と死、存在の全体を通して、時には横に、時には前に、後ろになっ て、共にいるものとして神の真実を示されます。 更に、このエフェソのみ言葉に注目すべきことは、罪過の中に死んでいたわたした ちを「キリスト共に命を与え、キリスト共に復活させ、キリスト共に天上の座につか せてくださった」といって、十字架に向かうキリストが共にいることを証しているの ではなく、復活の命に「共に」導いてくださるキリストを言い表していることです。 十字架に向かうキリストは、罪に悩むわたしたちの「あと」から共に歩んでくださっ ていることを証しするとすれば、復活して天上の座につかれキリストはわたしたちの 「前」を歩いて行かれるキリストです。わたしたちと共に歩んでくださるキリストは、 だれも介入することのできないようなわたしの罪と死と裁きにまで共にいてくださり、 死者の国まで共に歩んでくださいます。更にそればかりか、命を与えられることにも、 復活することにも、また天上の座についてもろもろの権威と力と支配とを足の下に従 わせるところにも共に歩んでくださり、わたしたちを立ち会わせてくださいます。 これはわたしたちが未だ見ざる事、しかし、教会において確かに見えていること、 その肢体である一人一人のキリスト者の障害において、部分的にではあるが見ている こと、希望を持って予見していることです。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る