6月29日
1997年6月29日

「深く生きる」

吉田 満穂 牧師(元高知教会牧師)

ロ−マの信徒への手紙5章1−11


 「あなたは幸福ですか?」と問われて、すぐに答えることはできますか?実際に

は幸福かどうか簡単には答えられるものではありません。アウグスティヌスという

古代の教父は、「告白録」のはじめに、「わたしたちはあなたに向けて造られまし

たので、あなたのふところに達するまでは本当の幸福はありません」と神に向かっ

て祈っています。これが人生の本当の姿ではないでしょうか。結局、最後に神のふ

ところにいたって、行き着くところに来たといえるのではないでしょうか。

 パウロは「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたした

ちの主イエス・キリストにより神との間に平和を得ている」と語ります。神のふと

ころに達するとは、このように「神との間に平和を得る」ということです。しかし、

神との間に平和を得るとなると、それは簡単なことではありません。神はわたした

ちのすべてを知りたもうのですから、神の前に出るということは楽しいことではあ

りません。しかし、その神が、恐れることはない。私のすべてを知りつつ、わたし

たちを赦してくださる方であるとわかれば、それはどんなにうれしいことでしょう。

 40年ほど前のこと、高知教会の熱心な信仰者の家庭の長男、小学校6年生の子

どもが白血病であることがわかりました。両親は深く悲しみました。はじめは症状

は全くなく、本人も入院をいやがって、病院でもほかの子どもに遅れないように、

同じようにしなければと、時間割通りに勉強をしているような子どもでした。入院

してから1年が過ぎ、父親が単身赴任で、家族がその子の病気のために犠牲になっ

ているからと、2人の姉妹と母親とが赴任先の父親と屋島でおちあって一日楽しい

時を過ごそうということになりました。朝早く家族が出発してすぐに、その子の容

態が急変し急逝したのです。すぐに汽車に乗っていた母親を次の駅に連絡して引き

返させました。病院で子どもの亡骸に対面した後、病室から出てきて母親が言った

ことは「先生、どうして神さまはこんなことをなさるのですか。どうしてこれほど

わたしたちの家庭をいじめられるのですか。こんなことをされても、神さまを信じ

なければならないのですか。こんな悪いタイミングで、子どもの死に目にもあわず

に逝ってしまった」ということでした。わたしはこの言葉に、返す言葉を持ちませ

んでした。

 次の日曜日、その母親が少し遅れて礼拝に来ていました。緊張して説教をし、礼

拝後に「よく来られましたね」と声をかけると、「先生、いまわたしは神さまを信

じていません。でも、一人で家におれなくて、ここに来ました。今は、倒れないで

立っているだけです。」といいました。「艱難は忍耐を生み出す」と語られていま

す。「忍耐」とは、「ようやく立っているだけ」というような時を過ごすというこ

とです。

 しばらくたってから、母親が自分の経験を振り返って、この痛烈な経験によって

3つのことを学んだといいました。一つは、自分の子どもが白血病だと知らされた

とき、死を覚悟したけれども、あのような死に方をしたことだけ、それだけを見て

きた。しかし、ちょっと目をあげて向こうを見ると、あの子は神さまのふところに

抱かれているに違いない。あの子にとって母親のわたしだけがあの子を幸せにして

あげることができると思うのはわたしの思い上がりで、神さまのふところに抱かれ

ている方がわたしの所にいるよりもあの子にとって幸せだったかもしれないという

こと。

 二つは、この経験はわたしだけのつらい経験だと考えてきたけれども、この一年

神さまはどのように過ごされたのかと考えてにると、キリストの十字架のことはは

じめてわかってきた。十字架の上で、「何故お見捨てになるのか」と叫んでおられ

る。わたしたちに対する神の怒りを一身に引き受けて、神から捨てられ、神に呪わ

れたものとして、苦しみもだえておられる。わたしが苦しんでいるとき、キリスト

はわたしのためにこのように苦しんでくださったことがはっきりしてきた、という

こと。

 三つめにわかったことは、この経験によって、何が善で何が悪かを決めるのは自

分ではないということ。善悪を判断するのは神にまかせなければならない。自分の

人生の黒白を決めるのは自分ではないということがわかった、というのです。

 わたしの人生の最後のハンドルを握っているのは誰なのか。わたしの人生の最後

のハンドルを握っているのはサタンでも不条理でもなく、神です。上っ面だけの幸

・不幸を見てはいけません。これが深く生きるということです。このことから自分

の人生を見直して見ると、自分が幸福だと思ったこと、不幸な経験が違った目で見

ることができます。人生を見直すことができるのです。人は見る目の高さが変わる

と景色が全く違って見えるようになります。自分の目の高さだけが信頼できるすべ

てと思うのは間違いです。神がみておられる、このことが解ったら、わたしたちの

生きる姿勢が変わってくるのです。人間の目にはどのように見えようとも、わたし

たちの生涯の最後のハンドルは神さまが握っておられることがわかるのですから。

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