1月7日
2007年1月7日

「祝福を祈ること」

民数記6:22-27;ヘブライ人への手紙13:20-21


   「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

    主が御顔をあなたに向けてあなたを照らし、

    あなたに恵みを与えられるように。

    主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」

 これは「アロンの祝祷」と呼ばれ、旧約の礼拝でも、またキリスト者の礼拝でも、

その始めや終わりに祭司や牧師によって祈られる祈りの言葉です。キリスト者の礼拝

では、これに続いて「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたにあるよ

うに」という、三位一体の神の名による祝福が加えられます。「祝福する」祈りはど

のような意味があるのか、このアロンの祝祷」の言葉をよく味わって、深く心に刻み

ましょう。

 祝福を祈ることは、聖書の独特の習慣であり、また信仰です。礼拝の中で祭司がす

る重要な務めが、そこに集うものを祝福し、また、祝福の言葉をもって世界に送り出

すことです。そのような決まり文句の祈りをすることに何の意味があるのでしょう。

 祝福の意味を考えるとき、何よりも覚えなければならないことは、「アロンの祝祷」

の言葉を見てもわかるように、祝福する主体は、祝福を祈る人ではなく、主なる神で

す。主なる神の祝福があり、御顔が向けられる時、そこに、守りがあり、恵みが注が

れ、平和は保たれる、このような信仰が表明されています。祝福は、祝福される人の

生活全体に「主の名をおく」ことなのです。生活の隅々にまでわたしの名がおかれる

ことなく、主の名がおかれなければなりません。また、祝福は「幸運でありますよう

に」とか、「元気でいてください」というような軽い挨拶ではありません。それは、

天と地を創造された神の祝福、とりわけ、人に託された祝福と責任の事態に立ち帰り、

その祝福の事態が実現するようにと祈ることです。人は「神のようになろうとして」、

その祝福の事態から堕ちている現実の中に生きていますが、そこから、神の平和(シ

ャローム)に立ち返るようにとの祈りです。どんなに祝福された世界から遠い現実に

生きていても、祝福の祈りによって生き、また、祝福の祈りをするものとして、教会

はこの世界の中に立っています。祝福を受けるものとして遣わされ、祈るものとして

生きるのです。


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