民数記20:1-13;使徒言行録5:27-32
カデシュの滞在していたイスラエルの民に二つの危機が襲います。共に旅を導いて きたモーセの姉ミリアムの死と、飲む水のない危機です。主の会衆はモーセとアロン に悲しみを共にする時間を与えません。彼らに向かって、またもや、「なぜわれわれ をエジプトから連れ出したのか」、と責めたてます。出エジプト記17章で旅の始めに 展開されたことと同じです。そして、ここでもモーセの杖で岩を打つと水か溢れ出し 民の渇きを潤すことができたという結末で終わります。違う点が二つあります。それ は、ここで不満を述べるのは「主の会衆」と呼ばれている人たちであること、結末で 主から裁かれているのは主の会衆ではなく、モーセとアロンだということです。 「主の会衆」ということは、もはやこの旅の集団は単なる烏合の衆ではなく、主の 会衆、つまり信仰の共同体であり、「教会」です。水の危機に際してモーセとアロン に突きつけた不満は、教会の不満、神に対する不信仰です。その本質は、明らかです。 主の民の時の中に生きていないこと、つまり、主によって導かれてきた過去の経験が 知恵にならず、将来の望みが忍耐を生み出さない、直面する危機に足をすくわれてい る状況です。教会が真に主の会衆となっていない事態、これは他人事ではありません。 ところが、この事態に対して主が裁かれるのは、モーセとアロンに対してなのです。 「わたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さ なかった」、「あなたたちはこの会衆を、わたしが与える土地に導きいれることはで きない」と。モーセとアロンは民の不満を聞くと、主の前にひれ伏し、主の言葉に従 って杖で岩を打ち、まさに奇跡さえ起こす信仰の行為によって民の渇きを癒していま す。この不信仰の本質をとらえることは簡単ではありません。見かけ上完全に信仰者 の行為と見えることのうちにひそむ不信仰、主の僕として主の聖なることを示さない 怠慢、この見えないところにある罪が、実は、主の会衆を主の会衆として形成して行 かず、約束の地に導きいれる資格を持たない導きであることを見抜かれる主のまなざ しがあります。主よ憐れみたまえ。