2月4日
2007年2月4日

「約束の地への迂回 」

民数記20:14-21;ルカによる福音書10:1-12


 長い荒れ野の旅からいよいよ約束の地に向かっての前進。これから、周辺諸民族と

の折衝や戦いを経て、ついにヨルダン川を渡るところまで、最後の旅が続きます。そ

の最初のところで、エドムの王との交渉が決裂に終わり、大きく迂回しなければなら

なくなった物語が記されています。 

 エドムは、死海の南からアカバ湾にいたる一帯に居住する半遊牧民、あるいはその

国の真ん中を貫く「王の道」(アラビア半島とメソポタミアをつなぐ交易路)によっ

て富を得ていた民です。ヤコブの双子の兄弟エサウの子孫といわれ、イスラエルと同

胞ですが、旧約を貫いてその関係は敵対的です。そのような敵対関係の根源的な原因

となった歴史物語の一つがここにあります。出エジプトの民がエドム王の国を通らせ

てほしいという丁寧な願いをにべもなく断った、それゆえ困難な迂回路をたどらねば

ならなくなった、ということです。

 それだけのことですが、これが主の会衆の物語として考えられるとき、独特の困難

な問いにぶつかります。物語をよく読むと、エドムの王と交渉するモーセの使者たち

のことばは、まことにイスラエルの民の信仰告白そのものです。主の導きを物語り、

同胞であるエドム王にも共感を求め、謙虚に道を通らせてほしいと願い出ているので

す。そこには敵意も侵略的な意図も微塵もありません。まさに平和の挨拶をしている

のです。しかし、それに対する応答はまことに冷たいものでした。軍隊を出して通行

を阻止しようとさえしたのです。このような反応に出会ったとき、主の会衆はどうす

るのか。天から主の軍勢を送って敵を追い払ってくださるように願い求めるのか。い

え、迂回するだけなのです。ここでは、主が道を備え、目の前の道を空けてくださる

のではなく、迂回をすることを学ばなければならないのです。人生の旅の中で大きな

迂回をしなければならない時があります。それはこちらの側の怠慢や準備の足りなさ

に起因するものもあれば、また目の前の相手や状況に起因するものもあるでしょう。

しかし、いずれにしても主の会衆の旅もこのような迂回を経験します。では迂回する

ことになったから主の助けや導きはなくなるのか、いえ、この迂回の中でこそ、主の

導きを深く知ることになるのです。

「神を愛するものたち、つまり、ご計画にしたがって召された者たちには、万事が益

となって共に働くということをわたしたちは知っています」(ローマ8:28)

この真理は迂回路において確認されるからです。


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