民数記20:22-29;ガラテヤの信徒への手紙 3:26-4:7
約束の地に向かって旅をするイスラエルの共同体は、カデシュからホル山に着いた ところで、アロンの死という出来事を経験します。モーセの兄、イスラエルの指導者、 祭司の死です。「イスラエルの全家は30日の間アロンを悼んで泣いた」と記されてい ます。死は、一様に人に訪れるもの、しかし、人の死はそれぞれに特別であり、その 人の生全体を顕わにします。アロンの死は、どのような死だったのでしょう。 アロンの死を考える前に、旧約聖書にしるされる人間の死の独特の言い表し、「先 祖の列に加えられる」は注目に値します。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてこの アロンなど、その死を伝えるとき、死んで土になったのでもなく、消えてなくなった のでもなく、直訳すると「人々(民)の中に集められた」と言うのです。共同体の確 実な一員になった、ということです。死はそのように捉えられています。アロンは祭 司の衣服を脱いで息子のエレアザルに受け継がせ、務めを終えて、「先祖の列に加え られた」のです。 アロンの死は、どのような死であったのか、その死に表象をつけるとしたらどんな 言葉があてはまるのでしょう。アロンが死んだのは123歳、十分に長い生を生きた 死、「自然の死」です。しかし、共に生き、旅をしてきたモーセや親しい人たちにと ってはかけがえのない親しい者の死です。ミデアンの羊飼いとして生涯を終わるはず であったモーセをエジプトに連れ戻し、モーセの口となり杖となって民を解放し、荒 れ野を導いてきた協労者、イスラエルの大祭司の死です。しかし、何よりもアロンの 死は、約束の地を目前にしての「途上の死」です。「満ち足りて死んだ」アブラハム や、「今こそ僕を安らかに去らせてくださいます」といったシメオンの死とは違いま す。荒れ野の旅の途上での死、多くの課題を残した死、次の世代に希望を託した死・・・。 こう考えると、それはわたしたちの多くが迎えるであろう死と近いものと思わざるを 得ません。アロンはモーセや民の共同体のただ中で死んでおり、現代の多くの人が迎 える「孤独の死」ではないだけ、幸いというべきでしょうか。しかし、アロンの死と キリストにあって死ぬわたしたちの死との決定的な違いがあります。キリスト者は、 もうすでにキリスト共に死んでおり、わたしたちの死はキリストの復活の命によって 担われており、わたしたちは新しい命の約束の内に包まれて死ぬのです。アロンも、 そのような希望の地を望み見つつ死んだのです。