民数記21:1-9;コロサイの信徒への手紙 3:1-4
イスラエルの荒れ野の旅は、約束の地を受け継ぐ確かな前進の旅となります。カナ ン人の王アラドを打ち破って、その地の民を皆殺し(ホルマ)にするのです。聖書に はよくこのホルマのことが出てきます。「聖絶」、とか「殲滅」などとも訳されます が、男も女も、子どもも老人も皆殺しにすることで、ホロコースト、ポグロムの語源 になる言葉です。皮肉なことに、世界の歴史をひもとくと、最もこのポグロムの犠牲 になっているのはユダヤ人であることはよく知られています。神の支配する世界の中 で、神の造られた一つの民が皆殺しにされるということがどうして起こるのか、それ は是認されることか、これと関連して「聖戦」という概念は真に神の前で是認される ことか、という問いは、堅いとげとなって胸に刺さり、簡単には答えが出てきません。 しかし、ここでは、イスラエルの民が主に誓いを立てて、心を一つにして約束の地を 戦い取ろうとしたとき、「主はイスラエルの言葉を聞き入れ、カナン人を渡された」 という結果を生んでいるのです。主の約束を現実のものとして獲得するためには、後 退や迂回によっては成就されず、心を一つにし、主が勝利を与えてくださることを信 じて戦うことがなければならないことを教えられます。 これに続く情景もまた奇妙なものです。そのまま前進するのかと思いきや、「ホル マを出発し、エドムの地を迂回し、足の道を通って・・・」とまた大きく迂回してい るのです。そして、その旅の中でまたもや不満が生じ、「なぜわれわれをエジプトか ら導き上ったのか」とモーセと神につぶやいています。ここで注目すべきは、この不 平を言う民は荒れ野の第二世代であるということです。40年の旅で聖別され、訓練 された聖なる民とはなっていないのです。これに対する神のさばきは「炎の蛇」を送 り、火のような痛みと死を与えて覚醒させるというものでした。悔改めた民は「青銅 の蛇」を見上げることによって癒されるという不思議な展開で話は終わります。「青 銅の蛇」が聖書の中で展開する仕方も、思いもかけないものです。列王記下18:4 では、ヒゼキア王が神殿の中に置かれていたものを、これを砕いて廃棄したことが記 されています。偶像となるからです。新約のヨハネ3:14では、主イエスがご自身 の十字架と復活を予兆するものとしてこの「青銅の蛇」をあげ、「信じるものが皆、 人の子によって永遠の命を得るためである」と語っています。