3月4日
2007年3月4日

「悪霊に対する戦い 」

創世記6:11-22 ルカによる福音書 11:14-26


 レントの期間は、「聖書日課」にしたがってみ言葉を聞きます。わたしたちに与え

られているみ言葉は、主イエスが悪霊を追い出し、ものが言えなくなっていた人が語

り始めたこと、その驚きの中から、「あの男はベルゼブルの力で悪霊を追い出してい

る」と中傷されたところです。

 主イエスの働きのなかで、悪霊追放は大きな位置を占めています。悪霊は、口を利

けなくするだけでなく、あらゆる病気、障害を引き起こす力、人の精神と肉体に働き

かけて、その人をその人でなくしてしまう異常な力、そのようなホリスティックな人

間のとらえ方だと考えると、わたしたちの時代にも、また身近なところでも、そのよ

うな力があることはわかります。主イエスのまなざしは、そのような人の最も根源に

あるものに向けられ、その人の全体を回復することに向かって御手を伸ばされます。

 その働きを目の当たりにした人々の心に驚きが広がります。その驚きは当然です。

そこでは、目の前で神の愛と憐れみが働くのを見たのですから。そして、悪霊を追い

出してもらった人だけでなく、それを見ていた人たちの間にも、主なる神との交わり

が回復され、人の全体性が回復され、社会の健全さが回復された稀なときに立ち会っ

た感謝とさんびが起こるはずでした。しかし、人々の中から起こってきたものは、そ

の主イエスの働きの本質を「ベルゼブルの力」「悪霊の頭による働き」と見る思いでした。

なぜ、そのような見方が出てくるのか、ここが問題です。真に力あるもの、聖なるも

の、権威あるもの、生命あるものに出会うとき、それを悪の力と枠付けようとする思

い、その出所は、自らを神のごときものとする「誇り」です。主イエスによって神の

愛と憐れみが現実化されればされるほど、それを「悪霊」の働きと枠付ける精神、これ

は主イエスを十字架に向かって押しやる精神にほかなりません。その精神は、主の言

葉を聞いている私たちのうちにも、いつも働いていて、その語りかけを向こう側のこ

とと枠付けるだけでなく、排除すべきものとみなすのです。主イエスは、そのような

中傷に対して、あえて、反論しています。「わたしが神の指で悪霊を追い出している

のであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ」と。それはなぜか、わた

したちの信仰が、揺るぐことなく、主のみ技の本質に向かい、その驚きがただしく回

復と感謝と礼拝に向かうようにと主は願っておらるからです。


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