イザヤ書63:7-14 ルカによる福音書 9:13-27
わたしたちは日々、十字架上で死に復活された主イエス・キリストの存在とその生 涯に示されている不思議さを思いめぐらしながら生きています。わたしたちの内には ないその歩みによって、新しく生きる道を示されるのです。主イエスの歩みにふれた 誰もが「一体この方はどなたなのだろう」という問いを抱きます。ところが、福音書 では主イエスご自身が弟子たちに、「わたしのことを誰といっているか」と問い、そこ から最初の受難予告が語りだされているのです。それによって、更に大きな問いの深 みに導かれます。 主イエスのことを何と言っているか、ルカによる福音書はガリラヤ湖のほとりの村々 で歩まれた主イエスの働きに対して、人々が語った印象を率直に伝えています。それ はくっきりと分かれていて分かりやすいものです。悪霊や穢れた霊につかれた人々は 一致して、「神の子です」とか、「神の聖者」ですといった賛美です。精神のバランスを 失っている人々、社会の中心から除外されている人ならではの人間洞察の深みを感じ させます。普通の人々の反応はどうか。「大預言者がわれわれの間に現われた」(7:18) とか、「罪まで赦すこの人は何者だろう」という驚きや戸惑いが中心で、それ以上では ありません。ヘロデのところにもたらされた主イエスについての情報、バプテスマの ヨハネが生き返った、とか預言者エリヤ現われた、といった言葉の中には政治的なデ マゴギーのニュアンスが含まれている感じがします。支配者の横暴に対する死者を使 っての民衆の反撃です。律法学者やパリサイ派の人々の反応は更にゆがんだものです。 「悪霊のかしらベルゼブルによって悪霊を追い出している」とか、「見ろ、大食漢で大 酒飲みだ。徴税人の仲間だ」とねたみ丸出しです。これらの反応はすべて、主が行わ れた力強い働き、癒しや悪霊追放、神の国の到来を告げる言葉からでています。ペト ロの「あなたは神のメシアです」も同じ驚きと感動から出ていると考えられます。 しかし、主イエスは、これを語ることを禁じて、「人の子は必ず多くの苦しみを受 け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺され、三日目に復活することにな っている」と語られるのです。好意をもって迎えられる人々の中にではなく、最もゆ がんだ、悪意のある人々の中に、自分の生きるべき終極の意義と場があることを明ら かにしています。これは、主イエスの祈りから出てきた決意だとルカは伝えます。