3月25日
2007年3月25日

「 わたしの罪は御手に束ねられ 」

哀歌1:1-14 ルカによる福音書 20:9-19


 主イエスが十字架にかかられる前エルサレムで語られたたとえ話は、まったく不愉

快な話です。ぶどう園の主人とそれを借り受けた農夫たちの話ですが、収穫の分け前

を受け取るために遣わした使者たちを袋叩きにしたり、侮辱したり、傷を負わせて追

い返すことを繰り返したあげく、ついには、主人の愛する息子が来たとき、「これは

跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば相続財産は我々のものになるだろう」と相談

して、園の外に連れ出して殺してしまった、というのです。当然、この農夫たちも主

人によって滅ぼされてしまいました。農夫たちの不誠実、暴虐、無思慮は目に余りま

す。いったい何を信じ何を当てにして、このような暴挙をエスカレートさせて、自ら

の破滅を招いているのでしょう。また、主人の考えも理解できません。大事な財産を

貸す相手を見極めることに失敗しています。最初の僕が侮辱されて帰ってきたときに

処置していたらもっと簡単に解決していたものを、愛する息子を失うまで泥沼にはま

ってしまったのです。暗い、人間味の感じられない、気味の悪い話です。それを聞い

た律法学者たちは、自分たちにあてつけて語られたことと感じて、イエスに手をかけ

ようと思ったが、民衆を恐れたと言っていますが、民衆でさえ、「そんなことがあっ

てはなりません」(神が許すはずがない)とこの話の受け取りを拒んでいます。

 このたとえ話によって主イエスが果たさせようとした用事・仕事・必然とは何か。

これを考えるためには、この話の前後にある旧約聖書のことばが鍵になります。前の

ものは隠されています。イザヤ書5:1〜7その他にある神とイスラエルの関係をぶ

どう園の主人とぶどう園や農夫にたとえる言葉です。この物語は主イエスのとらえる

神の民の歴史です。後のものは詩篇118:22の「家造りらの捨てた石が隅の親石

になった」ということばです。神の愛する子の死をもってしか終わらない歴史、だれ

も神と人間の関係をそれほどにひどいものだとは感じていません。しかし、主イエス

はその事態を見ています。そして、その死によってでしか、立ち上がらないものがあ

ることを明らかにしておられるのです。主イエスは人間の中にわずかに残っている善

意や信仰や誠実の中に自分の生きるべき場所と意義を求めるのではありません。その

ようなものが果ててしまっている心の場所をこそ、命を与えるべき場としておられま

す。「背いたわたしの罪は束ねられ、くびきとされる」その場所です。


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