エレミヤ書31:1-6 ヨハネによる福音書 20:1-18
ヨハネによる福音書が伝える主イエスの復活の出来事は、復活の主を信じるにいた る二つのステージが示されています。最初に、マグダラのマリアが空になった墓を見 つけてペトロともう一人の弟子に告げ、彼らも墓に走って行って空の墓の事実を確認 し、「見て、信じた」と記されています。次に、マグダラのマリアだけが墓の前で泣い ていると、主イエスご自身が背後に立って、「マリア」と呼びかけてくださり、そこ で主との交わりが回復されています。この二つの場面は、わたしたちの復活の主との 出会い方をよく示しています。 最初のステージでの彼らの復活の信仰とは、どのような信仰なのでしょう。彼らは 何度も、イエスの死体を包んだ布や覆いのほか何もないのを見て確認しています。そ こには驚きがあり、悲しみがあり、疑いがあるだけです。そこからあえて立ち上がっ てくる信仰とはどのようなものでしょう。容易に「復活の幻想」が生じてくるような 状況であることは確かですが、何もないことを信じた信仰から何か生命的なもの、実 りのあるものが生じてくるとは思われません。その信仰について、「イエスは必ず死 者の中から復活されることになっていると言う聖書の言葉を、二人はまだ理解してい なかった」と、無理解から生じる妄信と断じています。これがキリスト者の復活の信 仰、復活の主との出会い方ではない、というのです。彼ら自分のの家に帰るだけです。 第二のステージの展開も興味深いものです。マリアは墓の前で泣いています。「な ぜ泣いているのか」との再三の問いかけ、そして、「振り向いて後ろに立っているイ エスを見た」と記されています。しかし、ことの本質を見ようとするマリアの観察は 役に立ちません。「しかし、イエスだとは分からなかった」のです。空の墓の現実、 誰かが取り去ったに違いないと言う固定観念を打ち破る「見る眼」は誰も持ち難いの です。その限界を打ち破るのは主ご自身、復活のイエスです。よき羊飼いが群れの内 にいる羊の名を呼んで緑の牧場に伴われるように、主は「マリアよ」と名を呼んでく ださり、目を覚ましてくださるのです。マリアは「ラボニ(先生)の意」と呼んでそ こで主との生きた交わりが回復しています。この信仰はもはや一方通行的ではなく、 対話的なものです。主は生きておられる、「わたしは主を見ました」とのマリアの使 信は、この交わりから出たもの、そして、すぐ「わたしも」との証言が世々にわたっ て告げられ続けるのです。