民数記 21:10-20 ヨハネによる福音書 4:7-26
イスラエルの荒れ野の旅はいよいよカナンの地に向かってその速度を増しています。 死海の東、モアブの地をゼレドの峡谷からアルノン川まで北上し、さらにピスガの山 地まで。ピスガの山地からは死海を隔ててはるか地中海まで見渡せ、北はヘルモン山 まで約束の地の全貌が眼下に広がります。その旅の中でベエルという場所に来たとき の出来事が歌と共に記されています。主がモーセに「民を集めよ。彼らに水を与えよ う」と言われて、これがこの町の名前ベエル(井戸)となったこと、「井戸よ、湧き あがれ。井戸に向かって歌え。勺と杖を持って司たちが井戸を掘り、民の高貴な人が それを深く掘った」と古い民謡の調子を残した歌が記されています。主が鮮烈な水を 与えてくださった喜び、感謝、荒れ野を旅してきたものが井戸を得て躍り上がってい る様子が目に浮かびます。しかしここには、これまでの旅とは違った光景が広がって います。旅の間中パンと水とは重要な問題でした。しばしば水のないところで立ち往 生し、不信に陥り、後ろを振り返ることを繰り返してきました。その度に登場したの はモーセと主の杖でした。しかし、ここにはもうあの岩を打った杖は登場しないので す。勺と杖をもって司たち、民の指導者たちが井戸を深く掘った、というのです。荒 れ野の旅という非日常性の世界から日常性の世界に近づいてきたとき、そこでは生命 を維持するための水の確保は、そこでも主が水を与えてくださるには違いないけれど も、そのためには民衆の組織が民衆の手で深く地を掘るという作業を必要としている さまを見ることができます。 わたしたちは、日常生活の中で渇きを癒すために、どのように井戸を掘っているで しょうか。もちろん自分の家に井戸を持っている人などめったにいないでしょうし、 渇きを覚えて苦しむという感覚もあまり経験しません。しかし、わたしたちには別の 種類の渇きがあって、その渇きを癒すために、ペットボトルを持ち歩くようになった り、真水を買う習慣が一般的になっているのではないかと思います。 主イエスは、十字架の苦しみの中で「わたしは、渇く」と語られました。全人類の心 の渇きは、その渇きの中に深く集められ、鎮められています。わたしたちの渇きは、 深く掘り砕かれて、主の苦しみにまで合わされるとき、命の水に行き当たり、湧きあ ふれる水に潤されるばかりか、「その人の中で泉となってわきあふれる」ものとなるの です。