4月22日
2007年4月22日

「 アモリ人の町の占領 」

民数記 21:21-35 コロサイの信徒への手紙 2:6-15


 約束の地カナンにいたるイスラエルの進軍は続きます。アモリ人の王シホンを打ち

破り、バシャンの王オグを撃って、「イスラエルは彼とそのコラを含む全軍を一人残

らず撃ち殺し、その国を占領した」というのです。もはやこの戦いが通過のための戦

いではなく、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入ってゆくための前線基地を構築する

地を得る戦いになっています。アモリ人は、20世紀になって発掘されたマリ文書に

よってその文化や政治的な力は両河地方や地中海一帯にも及んでいたことが分かって

います。またバシャンはガリラヤ湖の東から北に広がる肥沃な土地で、「バシャンの

肥えた牛」、「バシャンの樫の木」などの表現でその豊かさが称えられます。いずれ

にしても、アモリ人にしても、バシャンにしても、吹けば飛ぶような小さな国ではあ

りません。国を通過させてほしいという願いに、問答無用とばかり、全軍を傾けた抵

抗を受け、戦いになり、これを征服すると言ったお決まりの経過です。

 なぜ、エドムのときのように抵抗に遭ったら迂回するという手段をとらなかったの

か。なぜ、皆殺しという暴力的な方法によらなければならなかったのか。このような

難問がわたしたちの前に立ちふさがります。イスラエルの民がエジプトを出て約束の

地カナンに導きいれられる歴史は、いずれにしても「自由」と「解放」が主題である

と共に、また「暴力」と「戦い」がサブテーマです。エジプトからの脱出ではファラ

オの奴隷状態からの解放を阻む暴力に対して、神の杖、神の言葉が威力を発揮して、

ついにそこから解放されますが、そのために用いられた暴力も相当なものでした。今

度は解放された民が真に自由を得、安住の地を得るために、また、新たな戦いが求め

られています。ここでも自由を阻む暴力があり、その暴力を撥ね退ける暴力が用いら

れます。暴力なしに解放され自由になる道はないのか、これは、いまだ未解決の現代

的な問題です。いずれにしても、出エジプトが描いている神の民の歴史は、解放のた

めの戦いも、また、自由に生きるための戦いも、神ご自身が戦ってくださる戦いとし

て、勝利の進軍となると言うことです。神の戦いに民が加えられているのです。主イ

エス・キリストと共なる戦いも、「勝利の進軍に伴わせてくださる戦い」ですが、こ

の戦いは、キリストの死にあずかる戦い、復活にあずかる戦いです。


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