民数記 22:1-21 テモテへの手紙二 4:1-8
モアブの王バラクが遠くユーフラテス川のあたりに住む預言者バラムを呼んでイス ラエルを呪ってもらおうとしますが、呪うはずのものが逆に祝福する言葉を聞かされ るという変な話。バラクとバラム、それぞれの振る舞いの中に、わたしたちの心の内 に隠されている神との関わり方、ゆがみの独特のあり方を見るようです。 モアブ王はおびただしい数のイスラエルの民を見、この民がアモリ人にしたことを 聞いて、恐れおののき、「牛が野の草をなめつくすようにわれわれの周りをすべてな めつくそうとしている」と恐怖に駆られた対策に走ります。バラクの採った危機対策 は賢明なものでした。武力ではかなわないと見て、主なる神に呪ってもらうことが最 善最強の防衛策と考えたのです。そこで神の人バラムを招くことになったのですが、 バラムについて「あなたが祝福するものは祝福され、あなたが呪うものは呪われるこ とを知っています」と絶大な信頼を寄せています。このバラクの「神頼み」には二つ の問題があります。祝福し呪う主体が何であるかについての認識があいまいであるこ とと、祝福や呪いは人間が操作できる程度のことと考えて、自分に都合のよい方だけ を利用しようとしていることです。このご利益信仰、ご都合主義のゆえに手痛い仕打 ちに遭うことになります。 神の人バラムはどうか。驚くべきことに、イスラエルの民ではありませんが「わた しの神ヤハウェ」と語り、アブラハムやモーセと同じように神と語り合うことができ ます。バラムは主の言葉に従って行動しようとしています。「たとえバラクが家に満 ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神主の言葉に逆らうことはことの大小を問わず できません」と。にもかかわらず二度目の使者が来たときには、「彼らと共に行きな さい」との主の言葉を聞いたのはなぜか。それは、自分が聞きたいと思った事を聞い たのではなかったか。目の前の礼物のゆえに主の言葉の聞き方にバイアスがかかった のではないか、と疑われます。わたしたちの中にもそのような誘惑がないわけではな く、自分が聞きたいと思うことを主の言葉として語ることがあるからです。