エフェソの信徒への手紙2章11−22
キリストが平和になってくださって、敵意を砕き、隔ての中垣を打ち壊してくださ ったこの神の和解の業、エフェソの信徒への手紙の中心はまさにここにあります。 まず、異邦人のキリスト者に向かって「かつては遠いものであったが、今や、キリ ストの血によって近いものとなった」と語られます。遠いものから近いものに変えら れたというのです。「かつては、キリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、 約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望ももたず、神をもたずに生きてきまし た」。このような否定の言葉の連なりが意味することは、神の側から見て、いま救い に入れられている人たちは無縁のものの幕の外にあるべき人たちだったということで す。それはまさにわたしたちのありようにほかなりません。「アブラハムとイサクと ヤコブの子どもたちだけが、断絶も中絶もなく、歴史を貫通する鎖の輪であるユダヤ 人だけが歴史の中の神性を味わうことができる」(アンドレ・ネエール)という自負 の前に、わたしたちは自分のうちにある敬虔や信仰の浅さを恥じるだけです。「遠い」 のはユダヤ人から見てだけでなく、神の目からもそうだというのです。 「しかし、今やキリストの血によって近いものとなった」、ここに福音があります。 人間は近い関係によってでしか成長することはできません。暖かさ、親しさ、安心、 信頼、責任の分かち合い、連帯、このような関係において、自分を確認し生きること ができます。何がわたしたちの関係を遠いものから近いものへ変えるのでしょう。共 通するもの、同質のもの・・。しかし、聖書にある遠いものから近いものへの変化は、 互いの共通項を見つけることによってもたらされたものではありません。「キリスト の血によって」、すなわち、キリストがわたしたち一人一人の罪のために贖いの供え 物となって、罪を清算し、ただ恵によって無償で与えられるこの義を信じることによ って与えられた神との和解が、遠いものを近いものに変えさせる根源の力です。この 全く違う方向から互いに近いものにされたということの恵をわたしたちも確認しなけ ればなりません。教会の交わりを観察すれば、それはすぐにわかります。そして、そ の豊かさはわたしたちがつくる交わりとは比較にならない豊かさです。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る