5月20日
2007年5月20日

「 神が授けられる言葉だけを 」

民数記22:36-23:12 使徒言行録11:1-18


 モアブの地で繰り広げられたバラクとバラムの物語り。イスラエルの民の全く感知

しないところで、イスラエルを呪うはずのものが祝福を語ってしまうという滑稽な物

語が展開されています。大きな期待と共に迎えられたバラム。「どうして来られなか

ったのですか、あなたを優遇することがわたしにできないでしょうか。」目的をかな

えるための神頼みにはどんな報酬でも惜しまない覚悟のモアブ王バラク。「しかしわ

たしに何かを自由に告げる力があるでしょうか。わたしは神がわたしの口に授ける言

葉だけを告げねばなりません」と神の言葉を忠実に告げようとする神の人バラム。し

かし、バラムの姿勢にはどこかあいまいさが漂います。迎合的で、建前と本音に違い

があるような感じです。モアブ王の願っている通りの言葉を告げることによって得ら

れる利得に目が向いている様子が伺えます。結局、呪いの祭壇を築いて盛大な祭儀を

行うのですから。しかし、バラムの口に授けられた言葉の本音は違うもの。「神が呪

いをかけぬものにどうしてわたしが呪いをかけられようか・・・見よ、この民は独り

離れて住む民、・・・誰がヤコブの無数の民を数えられようか。わたしの終わりは彼

らと同じようでありたい。」ここで語られる言葉は祝福とは言えないまでも、モアブ

王の期待するものでないことは明らかです。主なる神は、バラムの人格をはるかに超

えて真実を告げさせ、神の言葉を語る道具としています。呪いを語るための道具とし

て招かれたバラムが神の道具とされているのです。するとどうなるか、バラムはモア

ブ王の道具として使い物にならない者、信用の置けない者になるということです。バ

ラムは自分の身を置く場所が違っているのです。神に用いられ、神の言葉を語る者が

この世において引き起こす、実に示唆的な事態です。


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