6月3日
2007年6月3日

「 目の澄んだ者の言葉 」

民数記23:27- 24:13 マタイによる福音書5:33-37


 奴隷の家から解放し、約束の地にイスラエルを導く神の計画の前に立ちはだかり、

モアブのためにイスラエルを呪う仕事を請け負った「呪いの請負人」バラム。しかし、

彼の口から出る言葉は、意に反して祝福の言葉ばかり。この間の抜けた物語を思いめ

ぐらすうちに、私たちがこの世で神の言葉に従って生きる不思議の事態がリアルに描

き出されているのに次第に気づいてきます。バラムの第三の託宣でも、ペオルで前と

同じように盛大に祭壇を築いて呪いの祭儀を催し、厳粛に語りだされますが、前にも

まして祝福の言葉がべラムの口から出てきます。眼下に広がるイスラエルの陣営が青

々と広がる緑の大地、豊かな水のあふれるところに広がっている情景。現実には「荒

れ野の入り口」にいるのですから、砂とほこりにまみれた難民の群れに過ぎないはず

ですか、バラムの目にはその向こうが見えています。そして、「エジプトから彼らを

導き出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ」と語っているのです。バラムは

確かに何かを見ているのです。偽者ではありません。ついにモアブ王は怒りだし、手

を打ちたたいて、「お前のところに逃げ帰れ」と追い出すのです。バラムはここでも前

に語ったことを繰り返します。「たとえバラクが家に満ちる金銀を贈ってくれても、

主の言葉に逆らっては、善にしろ悪にしろわたしの心のままに語ることはできません」

と。

 ここで興味深いことに気付かされます。人は、自分の心の内にあることをそのまま

に語ることが正直なこと、それを貫くのが誠実なこととされます。ところが、神の言

葉を語る人は、自分の心にあることを超えて、神が授けてくださる言葉を語らなけれ

ばならないのです。そして、ときには、自分の心か語りたいと思い、自分のおかれた

社会的状況で語らなければならないと考えることと、神が授けてくださる言葉は異な

るという事態を経験すると言うことです。旧約の預言者エレミヤやあの鯨に飲まれた

ヨナなどは、その矛盾の中で実に興味深い言葉と反応を残していて、わたしたちにも

その心の苦悩、危険な状況がよく分かります。バラムは、しかし、何のためらいもあ

りません。ただ神が告げる言葉を語るだけ。その愚直さと、それがもたらす滑稽な情

景、これが「目の澄んだ者、神の仰せを聞き、目の開かれたもの、全能者の幻を見る

もの、倒れ付し、目の開かれた者のことば」、と自らを語るのです。


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