6月24日
2007年6月24日

「 背 信 と 神 の 熱 情 」

民数記25:1-18 ペテロの手紙一5:8-11


「シティムに滞在している間に、民はモアブの娘たちに従って、背信行為をし始めた。

イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕った」と記されています。シナイ山のふ

もとで金の子牛を造って礼拝したことと並んで称される有名な堕落事件です。金の子

牛を造ったときは「さあわれわれに先立って進む神々を造ってください」との要望にし

たがって、自分たちの不安を解消する装置として神の像が造られましたが、ここでは、

自分たちの遊び、楽しみ、欲望の満足に付随してくる神々との一体化が問題です。

「わたしのほか何者も神としてはならない」と言う戒めは、このような人間の営みとと

もに踏み破られてゆきます。

 これに対する神の激しい怒り、その激しさのすさまじさがこのペオルの出来事では

印象的です。「民の指導者たちをことごとく捕らえ、主のみ前で彼らを処刑し、白日

のもとにさらしなさい。」イスラエルの男とミディアンの女性が一緒に集会の場に入

ってきたのを見咎めて、アロンの孫ピネハスが立ち上がって二人をその場で刺し殺し

た残虐行為。その言葉や行為の激しさに目を背けたくなりますが、それに対して主な

る神は、「ピネハスはわたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼ら

に対するわたしの怒りを去らせた」と評価しているのです。ここには「ねたむ神」と自

らを語るほどに激しい熱情をもって、ご自分が選ばれた民が自由の境界線を踏み越え

ることから守ろうとしている愛の神の姿が現されています。その神の熱情は罪を犯し

たものを処罰してやまない行為として表されていますが、何も知らないミディアンの

女性や2万5千人の死をひき起こすとすれば、その情熱は愛といえるのかと疑問を呈

したくなってきます。このピネハスの行為は神との「平和の契約」を授けられるもの

となるのです。旧約聖書に出会うこの神の熱情の激しさは、新約聖書ではただ一人、

神の独り子、主イエス・キリストに向けられていることに気づくとき、わたしたちは

その贖罪と平和の契約の重さに目を覚まされます。主の十字架こそ、まさにその熱情

を引き受け、また、それがとりなしと赦しの熱情としてわたしたちに向けられている

のです。


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