民数記27:12-23 コロサイの信徒への手紙1:3-8
主なる神はモーセに語られます。アバリム山の上からカナンの全土を見たところで、 「あなたはあの地に入ってゆくことはできない。ここで死ぬのだ」と。その理由は、 メリバの水のことで神に栄光を帰することをしなかったからだ、と。モーセは主の言 葉に抗弁し、自分の足であの約束の地を踏みしめたいと哀願することなく淡々と受け 入れています。聖書はこのように、エジプトの奴隷の家からイスラエルの民を解放し て、ついに約束の地カナンにまで導いてきたモーセの終わりを告げています。モーセ の死は、成し遂げたことへの栄光と讃美に彩られた死ではありません。途上の死、罪 と神の怒りを担った死、約束の地を目前にした死です。モーセはこのような自分の終 わりを静かに受け止めています。モーセ120歳、アロンやミリアム、その他同世代 の人々の多くの死を看取ってきたモーセ。それにしても、どうして、そのように自分 の死を受け止めることが出来るのか。それは、自分の生涯と自分が担ってきた役割が、 確実に実現に向かって進む主なる神の救いの歴史に加えられていると言う確信がある からでしょう。神が選ばれた共同体の命の中に自らの生と死をゆだねて、その希望の 中で、自らの死を受け入れています。希望の中での死だからなのです。 ただ一つ、モーセが主に願うことは、「共同体を指揮する人を任命し、主の共同体 が飼う者のない羊の群れのようにしないでください」ということです。彼自身が担っ てきた働きを継承し、いよいよ約束の地に入ってゆくに当たって、民の上に立って指 揮する人を主ご自身が任命してくださることを願うのです。その旅を全うすることの 困難さを最もよく知っているのはモーセでしょう。それに相応しい資質が何であるか を知っているのも。しかし、彼は、自分が適切と考える人を主が承認してくださるよ うにと言う願い方をしていません。ヨシュアが立てられることになりますが、それは モーセが立てたのではなく、主が立てられるのです。このように主の救いの務めは受 け渡されます。