8月5日
2007年8月5日

「 ささげものの計算 」

民数記31:25-54 コリントの信徒への手紙二8:9-15


 ミディアン人との大勝に終わった戦いの後、その戦利品を分ける話が記されていま

す。奴隷となった未婚の女性、羊、牛、ロバ、山羊など膨大な略奪品が一定の割合で

分配されると言う話です。先に学んだように、「聖戦」の名のもとにはじめられた戦い

がその目的をはきちがえ、汚れた戦争になってしまったミディアン人との戦争、そし

てその戦利品の分配など、そもそも、戦争そのものに対して罪悪感と嫌悪感を持つも

のには、こう言う出来事が聖書の中にあることに違和感を持ち、直面することに抵抗

を感じます。しかし、ここには確かに起こった戦いの出来事と、その戦いが終わった

ときにどのような秩序をもってその戦いの始末をつけるかについて独特の旧約の秩序

感覚が示されていることに気づかされます。

 主がモーセに与えた言葉、そこで指示される原則は二つです。「分捕った人間と家

畜の数を調べ、分捕ったものを戦いに出た勇士と共同体全体と折半しなさい」という

ことと、折半して勇士たちの取り分のうちからは0.2%を主に捧げるべきものとし

て祭司エレアザルに、共同体の取り分のうち2%は主に捧げるべき分としてレビ人に

与えなければならない、というのです。この指示のうちには、戦いの成果を戦ったも

のだけでなく共同体全体が共有すべきであるという原理と、戦果は主に捧げるべき義

務を負っているという原理です。戦いは人間と人間の戦いで、強いものが勝つという

力の原理が働きますが、ここで指示されていることは力の原理に対する抑制と歴史を

動かす真の力への畏れが働いています。それにもうひとつの原則、それは戦いを指揮

した千人隊長百人隊長らが金の腕輪やネックレスなどを捧げて「贖いの儀式」をしたと

いうのです。自らの命の代償として捧げものをし記念としたのです。共有の原則、捧

げものの義務、命の贖いの儀式、これらの内にある共同体感覚、神への畏れ、命の重

さの感覚、それは、仕事をなし終えたもの、成果を前にしているものが今日忘れてい

る感覚といえないでしょうか。


秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る