民数記33:1-49 ヘブライ人への手紙12:1-3
「モーセとアロンに導かれて、部隊ごとに、エジプトの国を出たイスラエルの人々 は、次のような旅程をたどった。・・・イスラエルの人々は、第一の月の15日にラ メセスを出発した。・・・アバリム山を出発して、エリコに近いヨルダン川の対岸に 沿ったモアブの平野に宿営した・・・。」長々とエジプトを出発してから、紅海を渡 り、シナイ山のふもとに滞在し、カナンに向かって進んでいったが、その土地のあま りに肥沃で強大そうであったので引き返して、40年もの間荒れ野をさまよい、つい にエリコに近いヨルダン川の対岸のモアブの平野にまで達したイスラエルの民の旅程 が詳しく記されています。なじみの地名もあれば、はじめて見る地名もあります。地 名だけを見れば無味乾燥な羅列にすぎません。その中にはどのような人と人、人と自 然の交わりがあったのか、また、その人間の地上の旅において、神はどのようにかか わりを持たれたのかについての記述はほとんどありません。しかし、ここに出てくる 地名は、実際に存在した地名であり、そこで確かに主なる神が約束されたとおりに、 イスラエルの民を奴隷の家から父と蜜の流れる地カナンへと自由への大いなる旅を導 かれた道筋が示されています。主の導きは空想の出来事ではないのです。その地名の 一つ一つが、実際に旅をしたものにとっては、いわばスイッチのように、その名を聞 くときにそこで起こった出来事をありありと思い起こすことができるでしょう。 しかし、この旅程表はまだ完結していません。モアブの平野までに過ぎず、これか ら、カナンへの侵入が始まります。そして、この旅の旅程は、カナンの地に入ったと ころで終わるのではなく、さらにイスラエルの歴史全体にまで伸び、その旅程には主 イエスが歩まれた町々村々、エルサレムの名も加えられ、そして、更に、復活の主と ともに歩む私たちの教会や一人一人の歩みにまでも伸びていることを思わせられます。 その旅程には、主の裁きと慈しみと憐れみに満ち溢れています。