民数記35:16-34 ローマの信徒への手紙6:1-14
これから入ってゆくカナンの地で、神の民の生活が怒りと復讐の巷にならないよう にとの配慮、ここで取り組んでいる課題は、古代の社会ばかりでなく、現在の世界で も、また私たちの日常生活でもいまだ大きな課題です。 「殺害者」(ロツェーアッハ)というヘブル語は暴力的犯罪的な殺人を行ったものを 言い,十戒の「殺してはならない」に使われている言葉と同じです。しかし、その現実 に近づいてゆくと、ことは簡単ではありません。鉄や石、木などの道具を使った殺人、 憎しみや恨みなど動機を持った殺人、これらは故意の殺人で、「血の復讐」がゆるさ れます。過失によって重大な結果を招いてしまった場合は、その犯罪者の裁判、隔離、 保護、更正の機能を、レビ人の町「逃れの町」が行う、というのです。ここで考えられ ている法の精神、秩序感覚はわたしたちにもほぼ理解できます。 しかし、故意の殺人を犯したものには、容赦のない「血の復讐」がゆるされている のはどうしてなのでしょう。「血の復讐をするものは、その殺害者に出会うときは殺 すことが出来る」というのです。「目には目、歯には歯、命には命」の同害復讐法の 原則です。「血の復讐」(ゴーエル・ハッダーム)という言葉は、近親者として果た さなければならない義務として、また、それによって流された血を贖う、買い戻す、 という意味を含んでいます。血の復讐をするのは、殺されたものの近親者の怒りを容 認してではなく、神の命令として近親者に課せられることなのです。それは、一人の 命を造り、護り、愛し、生きた交わりの相手である一人の人間の命に対する神の思い です。命が奪われ、血が大地に流されるとき、大地は汚され、その血のゆえに、同等 の代償なしには回復しない、そこに住むものは大地から吐き出される、と。このよう な一人の命に対する感覚、その重さと貴重さが、無駄に流された殺人に対して「血の 復讐」を必要としているということになります。実は、このことを理解するとき、主 イエスの、わたしたちの罪のための「血による贖い」の重さ、広さ、深さが分かってき ます。