民数記36:1-13 マルコによる福音書7:24-30
ついに民数記の最後の章になりました。しかし、クライマックスとはほど遠い、ま るで付録のような出来事をもってこの章は終わります。すでに27章のところで取り上 げられた問題、つまり、ヨセフ族の子孫ツェロフハドの家は男の継承者がおらず、娘 たちだけであったので、嗣業の地が与えられないことになると訴えました。そこでモ ーセは娘だけの家族にも土地を分け与えることを決めました。この章ではそれによっ て生じる新たな問題が取り上げられています。ツェロフハドの娘たちの親族の家長た ちがモーセのところに来て訴えます。もし娘たちが他の部族の男と結婚すると、彼女 たちが受け継いだ土地は他の部族のものとなり、「くじによって割り当てられたわた したちの嗣業の土地は削られてしまいます」と。ここでもモーセはその訴えはもっと もだ、ということになり、ツェロフハドの娘たちは自分の目によいと思う男と結婚し てもよいが、ただ同族のものに限るという決定が下され、実行されたという出来事で す。これは当事者にとっては重大問題でしょうが、全体として見れば、なんとも瑣末 的な問題に思われます。 ここで問題の本質は、「土地が削られる」こと、土地の確保ということなのでしょ うか。よく考えると、娘だけの家族は他の部族の中にもあるはずで、娘や婿をやった り取ったりの関係が続けばやがて平均化されて、どの土地もさまざまな部族の土地と して入り乱れた形になるでしょうから、削られた分は他の部族の中に所有できます。 むしろ、問題は、そのように入り乱れた土地所有の事態が起こることによって、神か ら与えられた土地という感覚が薄れ、感謝をもってそれを受け、責任をもって次の世 代にその恵みを受け継ぐという観念が失われてゆくことではないかと考えられます。 「部族の土地を固く守る」ことをモーセは求めますが、それは土地に固執することで はなく、恵みの継承に関わることです。そこから、新約の主イエス・キリストによっ て神の子とされ、「相続人」とされたという恵みに対する感謝と責任の感覚について、 独特の視野が広がってきます。