申命記34:1-12 ヘブライ人への手紙11:1-2,23-31
出エジプト記と民数記を学びながら、イスラエルの民が奴隷の家エジプトを脱出し 乳と蜜の流れる地カナンにまで導かれる旅を一緒に歩んできました。モーセの最後に ついては、申命記の最後に、ヨルダン川の対岸モアブの地で、ピスガの山頂から、カ ナンの地全土を見た後、そこで120歳の生涯を終えたと記されています。そして、 モーセがどこに葬られたかは今に至るまで知られていない、と。モーセの果たした役 割に比してその死の扱いは、驚くほど簡単です。モーセの働きの栄光と輝きは忘れら れませんが、また、主の僕として独特の限界づけが行われているのです。主の僕は神 になるのではないのです。 しかし、わたしたちはモーセとその働きを通して、神の像、神の御心、神と人との かかわりのあり方について、決定的な現実性が与えられ、その現実性が主イエス・キ リストにおいてあらわされた神の像、神の御心、神と人とのかかわりへの道を開いて いることを学ぶことが出来ました。旧約の神と新約の神はわたしたちとのかかわりの 現実性において一貫しているのです。モーセの生涯のさまざまな場面を思い起こしま す。 同胞の解放を目指して挫折し、ミデアンの荒野に逃げ40年間羊飼いとして生き、8 0歳のとき、主の召命を受けるモーセ。このとき、奴隷の民の叫びとうめきを「つぶ さに見、聞き、降って行き、救い、約束の地に導き上る」との主の決意を聞き、その ためにモーセが遣わされます。「わたしはある、わたしはある」との主の名、「必ず あなたと共にいる」という主の約束が神の民の歴史全体を貫きます。シナイ山で主か らいただいた契約の板は、共にいます神の熱情がどれほどのものであるか、それに相 応しく生きる人間のあり方はどのようなことであるかを明らかにするものでした。そ れを知ることにこの解放の旅の目的があったといえます。しかし、それが明らかにさ れるとき、いよいよ明らかになることは、民の主への反逆と不信、不誠実の事態です。 モーセの死は、その罪を負いつつの死であり、究極の解放と救いに至る途上の死とい うことになります。