イザヤ書40:1-11 マルコによる福音書1:2-11
マルコによる福音書は、一切のクリスマス物語を排して、「神の子イエス・キリス トの福音のはじめ」をバプテスマのヨハネの洗礼運動にあると見ています。主イエス の福音にふれる最初の道は、バプテスマのヨハネの「罪の赦しを得させる悔い改めの バプテスマ」の運動から始まっていると告げるのです。主イエスもこの道を行き、ヨ ハネから洗礼を受け、公生涯を始められます。わたしたちも、主の福音を自分の心で 聞くためには、バプテスマのヨハネによって備えられた道をたどらなければなりませ ん。 バプテスマのヨハネ、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食 べていた」風変わりの人、荒れ野の人。しかし、彼の伝えるメッセージ、罪の悔い改 めを促し、洗礼を受けよとの叫びを聞くために、ユダヤの全土、エルサレムの人々が こぞってヨルダン川に集います。特別な民族の歴史的な背景を持っていますが、きわ めて特殊な出来事です。しかし、確かにこの世界の中で起こった現象です。「神の子」 イエス・キリストの福音が、なぜ、このような特殊な「罪の赦しを得させる悔い改め」 の洗礼運動から始まるのでしょう。風変わりの、貧しい、小さな、辺境の宗教運動、 預言者の運動に過ぎません。なぜ、アブラハムやモーセやダビデなどイスラエルの大 預言者や王などの信仰や思想、霊感を引き受けることから始まらないのでしょう。こ のような問いは、イエス・キリストの確かな歴史的現実によってかき消されます。そ の現実を見よ、と。わたしたちが取るに足りないと思っている現実、実はそこから、 歴史の中には何も目新しいものがない、今日は昨日の繰り返しに過ぎない、と深い倦 怠に陥っているわたしたちのこの世の中で、新しい現実がはじまっていることを教え ています。 バプテスマのヨハネが主イエスのために備えた道は、不思議なことに、「荒れ野か らの道」ではなく、「荒れ野への道」なのです。人々はこの道をたどって、神のみ前 で罪を悔い改めるために、神に立ち帰るために、その道を急ぎました。