イザヤ書42:1-9 マルコによる福音書1:9-13
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でバプテスマのヨハネ からバプテスマを受けられた。」この簡単な記述の中に沢山の重要な情報が込められ ています。主イエスはガリラヤのナザレの出身であること。「ナザレから何のよいも のが出ようか」といわれた地です。そしてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた こと。神の子メシアの福音のはじめは、このような意外性に満ちています。何の変哲 もないありふれた人間の営みの中に、天地を揺るがす出来事が起こっていることを告 げているのです。バプテスマは、もともと、、どっぷり水につけるイメージが強い言 葉です。染料を染めたり、おぼれさせるといったときに使われる言葉ですからバプテ スマを受ける、ということはこのような激しい意味が込められています。バプテスマ のヨハネの洗礼は、神に立ち帰って、罪を死滅させよとの強い悔い改めの促しでした。 主イエスも、罪を悔い改める人々の列の中に加わり、水の中に低く降るものとなった のです。主イエスも、悔い改めなければならない多くの罪の中に生きていたのでしょ うか。この点を問題にして、ヨハネの福音書などは「わたしこそあなたから洗礼を受 けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか」とのヨハネの驚きを 伝えています。マルコによる福音書は、この主イエスの洗礼こそ、これ以後の主の働 きを象徴するもので、罪の中で生きている人々に加わり、水の深みに向かって身を投 げ出されるところに、その生涯の本質があることを伝えているのです。 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊がはとのようにご自分に下ってくるのを 御覧になった・・・。」ここで主イエスが御覧になり、また「これはわたしの愛する 子」という天からの声を聞かれたこと、これは、主イエスの主観的な経験で、だれも が聞いたということではありません。水の中に降られるイエスはだれの目にも見えて います。この出来事が天の側からは、霊の働きによるもの、神の子の福音が告げられ る、天の喜ばれる、まさに天が裂ける事態であった事を伝えています。