12月9日
2007年12月9日

「 神 の 国 は 近 づ い た 」

イザヤ書35:1-10 マルコによる福音書1:14-15


 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」主イエスの宣教

の始まりはこの簡単な言葉からです。これははじめの言葉であるだけでなく、主イエ

スの生涯を貫くこの世界全体へのメッセージそのものと受け取らなければなりません。

宣教のはじめは、ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行って宣教が始められました。

主イエスの宣教は、時代を超え、地域を超えて永遠の神の子、創造者の人類全体への

語りかけですが、その響きは無時間的な虚空に漂う声ではなく、歴史の中で、人間の

世界の中で確かに語りかけられ、聞かれる言葉となっています。

 その宣教の内容は、「神の国」が来ていることの知らせと、それに伴って、悔い改

めるようにとの勧めとの二つを含んでいます。何よりも注目すべきは、その切迫性、

近接性の響きです。「さあ、いよいよそのときが来た、手に触れるほどの近さのとこ

ろに来ている」というニュアンスです。つまり、主イエスの存在そのもの、また、そ

の働きそのものが、「神の子」の「神の国」のはたらきとして、それに触れるものの

あいだに広がってゆくことを宣言しているのです。「神の国」という独特の概念は、

旧約以来の伝統から考えると、それは壮大なものです。世界の終わり。それまでの人

間のあり方がさばかれ、滅ぶべきものが滅び、生かされるべきものが生きる、そのよ

うなとき。また、すべての被造世界が一変して平和が回復されるとき。イスラエルが

外国による永い占領と屈辱から解放されるとき。人間の罪と欲望が支配する世界から、

創造者である神の支配へと変わるとき。そのような壮大なイメージに比べて主イエス

の語り始めた神の国はなんと小さく、限られた世界を照らすものなのか、その落差に

驚かされます。まさに、からしだね一粒の大きさです。しかし、確かなことは、主イ

エスが神の国の到来を告げると共にはじめられた悪霊に憑かれたものや病人の癒し、

その宣教の言葉は、一人の人に届き、確かな新しい天と新しい地がそこから開かれて

いるのを見ることが出来るのです。


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