12月16日
2007年12月16日

「 人間をとる漁師に 」

アモス書7:1-17 マルコによる福音書1:16-20


 神の子イエスのガリラヤでの宣教のはじめは弟子たちを呼び集めることからでした。

「被造物全体が今に至るまで共にうめき、神の子の出現を待ち望んでいる」と語られる

ように、主イエスの宣教は被造物全体が待ち望んでいた福音、救いのおとずれです。

その言葉は、しかし、まことに小さい世界で、まことに普通の人たちの日々の暮らし

に入っていって、従ってくる人々を呼び集めるという仕方で活動を開始しているので

す。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟

アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。」すべての始まりは、主イエスが

「御覧になる」ことからです。シモンやアンデレ、またゼベダイの息子のヤコブやヨ

ハネの従ってゆく姿勢は決然として潔く、すべてを後に残して従っていますが、その

決意が先立つのではありません。主イエスは彼らの生活全体、その魂の奥底、その生

涯の終わりまでを御覧になって、「わたしに従ってきなさい」と呼びかけられます。

その呼びかけの言葉を正確に訳すと、「わたしは、あなたを人間をとる漁師になるよ

うに、あなたがたを創造する」ということです。主イエスの招きは神の創造の働きで

あって、招きに応えるということは神の創造の過程に入れていただくということです。

従って、この招きは、それぞれの人の中にあるさまざまな才能や熱意を寄せ集めて一

つの全体につくりあげる、そのような招きではありません。しかも、神の創造の過程

に入れられるということは、一日にして完成するのではなく、一人前の漁師になるの

に何年もかかるように、さまざまな経験を経て造り上げられて行く、そのような過程

に入るということです。「人間をとる漁師に・・・」何とユーモアのあることばでし

ょう。漁師の仕事とイエスの弟子として働く仕事と、どれほど大きな違いがあること

か。恐ろしい深淵がそこに横たわっています。しかし、このユーモラスな言葉によっ

て、その深淵に橋が渡され、自分の資質や能力と必要とされ資質と能力の落差におの

のくことなく、田舎の漁師たちは笑いながらイエスに従ってゆくことが出来たのです。


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