12月23日
2007年12月23日

「 神 の 聖者 」

イザヤ書52:7-10 マルコによる福音書1:21-28


 主イエスは弟子たちの召し出しに続いて、漁師町カファルナウムの会堂で安息日に

会衆に語りかけるところからいよいよ「神の国の近づき」の現実を展開されます。マ

ルコ福音書はその語りかけを聞いた人々の反応を、「人々はその教えに非常に驚いた

律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と伝えて

います。「権威ある者として教えた」とはどういうことなのでしょう。「律法学者の

ようにではなく」とは?人々は安息日ごとに律法の教えや解釈を聞き、神の教えに即

して自分の歩みを確かめることに慣れていたでしょう。それとは違う種類の言葉、驚

きを与える言葉、権威ある言葉、それは、人々の中にある言葉と主イエスが語りださ

れる言葉が響きあって、深く共感させたり、納得させたり、好きになったりするのと

はちがう言葉を聞いたということでしょう。「権威ある言葉」それは、力、勢い、確

かさと共に、聞くものの中に侵入し、征服し、否応なく従わせる、そのような危険な

言葉です。主イエスはそのような言葉を語り、人々はそのように言葉を聞いたのです。

しかし、その言葉が語られるとき、それが直ちに現実になってゆく言葉、世界を説明

する言葉ではなく、世界を造る言葉、時間の流れと共に消滅する言葉ではなく、その

言葉によって世界がはじまる言葉です。
 ベツレヘムの夜、羊飼いたちが天使の歌声と共に聞いた言葉もそのような言葉でし

た。「今日ダビデの町に救い主がお生まれになった。・・・羊飼いたちは見聞きした

ことがすべて天使が話してくれたとおりだったので、神をあがめ讃美しながら帰って

行った。」彼らも確かに権威ある教えを聞いたのです。

 誰よりもその権威ある言葉によって動かされたのは「汚れた霊に取りつかれた男」

でした。その人の反応がまた興味深いものです。主イエスを、「神の聖者だ」と誰よ

りも深く認めながら、「わたしと何の関係があるのか」とかかわりを拒絶しているの

です。汚れた霊に取りつかれた人は、何も特別な人ではありません。わたしたちの世

界が主の言葉を聞くときの典型的な反応です。


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