12月23日
2007年12月30日

「 ガリラヤ中の会堂に行き・・・ 」

エレミヤ書4:23-28 マルコによる福音書1:29-39


 カファルナウムの会堂で安息日に語り、また汚れた霊に憑かれた人の癒しをされた

あと、シモンの家に行き熱病に冒されていたしゅうとめを癒し、更に、夕方町中の人

家に押しかけてきたのを癒し、更に朝、一人で祈っておられ、そこからガリラヤの町々

村々に宣教の働きを広げて行かれた。主イエスの働きの朝、昼、夕、安息日から週日

の歩みの全体、主イエスは昨日も、今日も、いつまでも、わたしたちと共におられま

す。今も、主の一日はこのように、わたしたちの中に入ってこられ、またわたしたち

を伴って、そのー歩みへと導き出されます。

 シモンのしゅうとめの熱病の癒し、短い一場の情景ですが、味わい深いものがあり

ます。「人間をとる漁師にしよう」との招きにしたがって歩みだしたシモンの家庭に

は穏やかならざる空気がただよっています。働き手を失って残されたシモンの妻、妻

の母親、その母親に熱病が襲いかかっているのです。どのような熱だったのか。火の

ように燃えさかるものは何か。怒りか、生活の心配か、神の国への呪いか。「人々は

すぐにイエスに話した。イエスは、そばに行き、手をとって起こされると熱は去り、

彼女は一行をもてなした。」主イエスが病を癒された最初の出来事ですが、神の国の

到来が現実に起こっていることを示しています。その癒しの全体性は注目すべきもの

です。主イエスによって病を癒されたのは遠くの人ではありません。多くの群集の癒

しに先立って、シモンの家庭に大いなる祝福のしるしが与えられているのです。父や

網や舟を捨てたシモンやアンデレ、ヤコブやヨハネは、自らが神の国の祝福にあずか

るだけでなく、まず最初に主の祝福の不思議にふれるのです。興味深い事実が記され

ています。シモンのしゅうとめは、主に手をとって起こされ癒されると、ただちに

「一行をもてなした」と記されるのです。ここには何も言葉はありませんが、その行

動でこの人たちも主に従う者となっていることがわかります。静かな追従者、この人

たちの従順がなければ、シモンの弟子としての歩みも、働きもどんなに荒唐無稽のも

のとなったことでしょう。


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