7月20日
1997年7月20日

「イサクの嫁」

創世記24章1−27


 創世記24章はこの章だけで一つの小説を読むようです。アブラハムの息子イサ

クのために生まれ故郷からリベカという極め付きの美人の嫁をもらったという古風

な物語ですが、ドラマ性があってとてもおもしろく読めますが、この世に生きるキ

リスト者のあり方を、ここから学ぶことができます。

 アブラハムにとって、息子のイサクにどのような嫁をもらうかについて、それは

イサクの自由な出会いと選択にまかせるべきだということではありませんでした。

カナンの女ではいけない、彼らが出てきたハランの地から連れてこなければいけな

い、またイサクを故郷に帰すのでもいけない、と実現不可能のような難問を託して

年老いた僕をハランに遣わします。なぜこんな注文をつけたのでしょうか。それは、

アブラハムに与えられた神の祝福の約束の継続性に関わることです。神を信じて神

の召命に従って旅に出て、主の指し示すところに従って生きるということが、極め

て個人的な、私的な世界だけのことでもあるなら、イサクが誰と結婚しようがそれ

は何の問題もありません。しかし、神の祝福の約束はアブラハムだけでなく子々孫

々にまで及ぶものであれば、祝福を受けることができるような態勢で家庭をつくら

なければなりません。このことが彼の家庭に困難な課題を課し緊張をもたらしてい

るのです。自分たちの信仰の旅を継続し一緒に苦労を負う人を捜しているのです。

目算ははただ一つ、「天の神であるヤハウェはわたしを父の生まれ故郷から連れ出

し『あなたの子孫にこの土地を与える』といって約束してくださった。その方がお

まえの行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れてくることができるよ

うにしてくださる」(5節)ということです。わたしたちは、この国でキリストと

出会い、信仰への旅へと導き出されて歩んでいますが、アブラハムと同じような課

題を誰も担っています。その場合何を目算にしているでしょう。

 第二の場面は、僕がラクダとたくさんの贈り物を携えてハランの地に行き、つい

にリベカを見つけるというところですが、ここでは祈りに始まり祈りに終わってい

ます。この困難な課題を抱えた僕は祈ります。そして、未知の人と出会い、主人の

息子の妻となるためにカナンの地に連れていかなければならない人を見つけるため

に知恵を尽くしています。主の慈しみを信じて行動し、そして、見いだして感謝の

祈りを捧げるのです。主はより頼む者を失望に終わらせることはなさらないのです。


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