7月27日
1997年7月27日

「リベカの決心」

創世記24章28−67


 アブラハムの子イサクの嫁としてリベカがついにカナンの地に来ることになりま

した。「イサクはリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」というハッ

ピ−エンディング。この話のクライマックスは、リベカの家で、アブラハムの僕が

この家に来た理由を話し、こういいます。「あなたがたが今、わたしの主人に慈し

みとまことを示して下さるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでな

ければそうとおっしゃってください。それによってわたしは進退を決めたいと存じ

ます」。これに対して、リベカの兄ラバンも、父ベトエルも「このことは主のご意

志ですから、私どもが善し悪しをいうことはできません。リベカはここにおります。

どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、ご主人のご子息の妻になさっ

てください」と答えます。ここで、決定的な転換、かくも困難なイサクの嫁探しが

決定したところです。リベカ自身も「わたしは行きます」ということで、難なくこ

とは前に向かって進んで行きます。ここでどれほど無理なナンセンスな要求がなさ

れ、また、どれほど無謀な決断がなされたかについて考えるいとまも与えないほど

スム−スにことが運んでいるのは何故か。それを説く鍵は、僕の持っているたくさ

んの財宝ではありません。僕の語る「神の慈しみとまこと」についての物語です。

主がどのように慈しみをもってアブラハムを祝福されたか、どのように慈しみを信

じて嫁探しの旅に出たか、どのように慈しみによって泉のほとりでリベカに出会っ

たか、どのように主の慈しみを感謝したかについて語っている内に、聞くものも、

読むものも、そこでなされる決断はもう決まったようなものという気持ちにさせて

います。主の慈しみとまことが、確かに、すべての歴史を導く糸と語るときに、誰

の心にもおこる動かしがたい信頼と安心とを見ることができると思います。それが

人を、遙かな旅へとよびだすのです。

 この物語を読むときに起こる期待される反応は、「その中で信仰が生きる楽天的

な平静さに気づくこと」と言われます。たしかに慈しみを持って緑の牧場に導いて

くださる真の羊飼いである主を信頼するような思いが養われますが、それだけでな

く、信仰者は冒険をすることができる、不可能に向かって挑戦することができる勇

気を与えられることをも学びます。主の慈しみを信じつつ、何も起こらないと厚い

壁の前で座り込むようなことはあり得ません。主は信頼する者をけっして虚しく去

らせることはないからです。

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